古渡稲荷神社

江戸の世のいっときの煌めきに思いをはせる

古渡稲荷神社鳥居と社殿

読み方 ふるわたり-いなり-じんじゃ
所在地 中区正木一丁目15番13号 地図
創建年 不明
社格等 村社・十二等級
祭神

宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
天津彦根火瓊々杵尊(あまつひこねほのににぎのみこと)
猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)
菊理媛命(くくりひめのみこと)
徳川義直(とくがわよしなお)
徳川光友(とくがわみつとも)
徳川綱誠(とくがわつなのぶ)

 アクセス

・地下鉄名城線「東別院駅」から徒歩約10分
・名鉄名古屋本線「尾頭橋駅」から徒歩約20分
・名鉄/JR/地下鉄「金山駅」から徒歩約20分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  
オススメ度 **

 江戸時代中期の1713年。尾張藩第4代藩主の徳川吉通(よしみち)が、丹羽郡石枕村(江南市石枕)にあった稲荷社と五條天神社、清洲にあった山王社をこの地に移させて創建した。当時は山王稲荷などと呼ばれていたようだ。
 丹羽郡石枕村は現在地より20キロほど北に位置する。どうしてあえてそこから稲荷社などをこの地に移させたのかは分からない。これらの神社に何か特別な由緒や思い入れがあったのだろうか。
 吉通は元禄2年(1689年)に江戸四ツ谷の江戸屋敷で生まれている。産土神(うぶすながみ)が稲荷だったことから稲荷の神を崇敬したという。
『尾張名所図会』にも山王稲荷は描かれている。それを見ると、当時は広い境内を持った立派な神社だったことが分かる。
『尾張志』にも、「稲荷ノ社 正殿 廻廊 拝殿 神楽所 御供所 宝蔵 御井 中門 表門 裏門 鳥居 表門番所」と、その様子が書かれている。
『尾張名所図会』で祭神は、イザナミ、ウカノミタマ、ニニギ、サルタヒコ、住吉四神と書かれている。
 もとの稲荷社、山王社の創建については伝わっていない。

 吉通は、3代藩主・徳川綱誠(つなのぶ/つななり)の十男として生まれた。
 父が48歳で急死したため、11歳で4代藩主となる。
 成長後は文武両道に励み、内政面でも成果を上げて名君と呼ばれた。
 1712年。江戸では第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)が死の床に就いていた。
 枕元に御側御用人をしていた新井白石を呼んで、跡継ぎ問題を相談した。息子4人のうち3人が早世して、残されたのは幼い家継だけになっていた。ここは御三家筆頭で名君といわれる尾張の吉通に跡を継がせた方がいいんじゃないかと。
 それに対して新井白石は断固反対した。幼いとはいえ正当な世継ぎがいるのに尾張から呼んだ者を将軍にしてはお家騒動に発展しかねないからやめるべきだと。
 翌1713年。家宣死去。跡を継いで第7代将軍に就いたのは4歳の家継だった。
 一方の尾張では、前年から藩士たちが謎の死を遂げるという事件があり、問題を起こして謹慎させられていた吉通の実母も亡くなってしまった。そのことと関係があったのかどうか、吉道も23歳の若さで死去してしまう。
 跡を継いだ幼い息子の五郎太は3歳だった。
 しかし、この五郎太はわずか2ヶ月で死んでしまう。
 その後家督を継いで6代藩主になったのは、吉道の弟、継友だった。
 3年後の1716年。江戸では7代将軍の家継が病に伏せっていた。風邪と思われたがあっけなくこの世を去ってしまう。まだ7歳だった。
 このときが江戸時代を通じて尾張藩主がもっとも将軍に近づいたときだった。
 7歳では当然、世継ぎがいるはずもなく、候補者は御三家の中から探すことになった。普通であれば御三家筆頭の尾張家から出すのが筋だった。吉通を将軍にという声もあったくらいで、継友はその弟だ。家康の血を引いているし母方の家柄もよく、血筋としては申し分なかった。
 しかし、これに異を唱えたのが6代将軍・家宣の正室で7代将軍・家継の母、天英院だった。天英院が指名したのは、紀州藩の吉宗だった。こうして8代将軍は吉宗に決まってしまった。以降、ついに尾張藩はひとりの将軍も出すことなく明治を迎えることになる。
 尾張藩6代藩主の継友についてはあまりいい評判がない。思慮が足らずケチだったという。将軍になれずがっくりきたのかもしれない。
 世継ぎがないまま39歳で死去。
 跡を継いで尾張7代藩主となったのは、異母弟の宗春だった。

 吉宗の質素倹約を旨とする享保の改革に反対して宗春は積極的な規制緩和をして町を活性化させる政策をとって対立した。
 対立の要因は、単なる政策についての考え方の違いというだけではなく、家宣、吉通時代から続く将軍の地位をめぐる争いもあったと思われる。家柄からして、宗春ははっきり吉宗を見下しているところがあっただろう。万事派手好きな宗春にとって吉宗という人間はつまらない男に映ったのではないだろうか。
 吉宗の享保の改革によって江戸でも京でも、文化、芸術などは冷え切っていた。芝居も禁止、祭りも暮らしも地味に、食べ物は質素に、遊廓なんてもってのほかという時代、宗春の尾張では祭りはでできるだけ派手に、商売大いに結構、芝居興行もがんがんやって、遊廓も公認した。結果、日本中で尾張だけが浮かれ騒いでいる世の中になった。自然と金も人も尾張に集まってきた。
 山王稲荷がある場所は、小栗街道(前の鎌倉街道)と美濃路の交差点付近で、人通りが多いところだった。地理的には名古屋城から離れるものの、ここに大木戸(城内と城外を分ける関所のようなもの)があった。
 この界隈に西小路(中区松原)、冨士見原(中区富士見町)、葛町(中区正木)と3つの公認遊廓ができ、それぞれ茶屋が30軒から40軒、遊女はそれぞれの茶屋に200人以上いたという。
 古渡の町は、江戸時代のある一時期、名古屋一の歓楽街だったのだ。
 しかし、そんな宗春の政策を好き放題させておくわけにはいかない。吉宗はあれこれ理由をつけて宗春を蟄居謹慎の処分とし、藩主の座から降ろしたのち、一切の外出を禁止した。謹慎生活は30年近く続くことになる。
 1764年。宗春死去。67歳だった。
 宗春の墓には網がかぶせられ、許されて名誉が回復されるのは死後75年経った1839年のことだ。

 宗春の功罪についてはよく語られる。
 現在まで続く名古屋の経済、文化、芸術、産業、祭りなどは宗春の功績だといわれる。一方で尾張藩の財政を傾けたともいわれ、なんでもかんでも規制を緩和すればいいというわけではないことを思い知る。
 ただ、この時期の名古屋の町が活気に溢れ、人々が生き生きしていたことは確かだろう。犯罪を取り締まるより犯罪者を出さない政策をすべきという信念で、宗春の時代はひとりの死刑も出さなかったといわれる。
 宗春が謹慎になって以降、ほどなく遊廓も芝居小屋も廃止され、やがて名古屋の町は火が消えたようになってしまったという。

 明治6年(1873年)、村社に列格。
 昭和20年(1945年)、空襲で被災。
 昭和53年(1978年)、本殿などを造営。
 神社としての見所はあまりないのだけど、かつての賑わいを想像し、移り変わった街並みを眺め、流れた時間を思うという意味で、オススメ度を**とした。
 真っ暗な風景の中、ここだけが夜ごと煌々と灯りがともり、闇の中にぽっかり浮かんでいる。人並みが途絶えることなく、賑わいと喧噪が朝まで続く。それは夢幻のようであり、ある意味では悪夢のようでもあったかもしれない。
 今、この神社の境内に立って、そんな光景を思い浮かべることは難しいけれど、確かにそれはかつてここにあったのだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

山王稲荷神社はいっときの夢幻の跡

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