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稲荷神社(古渡稲荷神社)


江戸の世のいっときの煌めきに思いをはせる



古渡稲荷神社鳥居と社殿

読み方いなり-じんじゃ(ふるわたり)
所在地名古屋市中区正木1丁目15-13 地図
創建年不明
旧社格・等級等指定村社・十二等級
祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
猿田毘古命(さるたひこのみこと)
菊理媛命(くくりひめのみこと)
徳川義直(とくがわよしなお)
徳川光友(とくがわみつとも)
徳川綱誠(とくがわつなのぶ)
アクセス地下鉄名城線「東別院駅」から徒歩約10分
名鉄名古屋本線「尾頭橋駅」から徒歩約20分
名鉄/JR/地下鉄「金山駅」から徒歩約20分
駐車場 あり
その他例祭 10月9日
オススメ度**

 江戸時代中期の1713年。尾張藩第4代藩主の徳川吉通(よしみち)が、丹羽郡石枕村(江南市石枕)にあった稲荷社を古渡のこの地に移したと伝わる。
 1713年といえば、吉通が23歳で謎の死を遂げた年に当たる。死去したのは9月15日で神社を創建したのは3月23日というから話のつじつまが合わないわけではないのだけど、新たに建てるのではなく丹羽郡石枕村にあった稲荷を古渡に移した理由がよく分からない。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、初め丹羽郡石枕村に鎮座のところを藩主徳川吉通、江戸四ッ谷邸に生れ稲荷を産土神として育ち崇敬する、正徳三年(1713)3月23日東照宮神主吉見幸和遷座の事にあたり今の社地に鎮座する。藩主継友正徳四年3月19日黒印百石を社領として寄進し、明治維新に及ぶ。明治6年、村社に列格し、境内に皇典講究分所、愛知県県社以下神職取締所を設置した。明治44年12月27日供進指定社となる。昭和20年空襲でで被災、昭和53年10月7日本殿以下主要建物を造営復興する。(山王稲荷)」
 江戸四ッ谷の尾張藩邸というのは尾張藩の中屋敷のことで、今は上智大学になっている。
 吉通はここ四ッ谷藩邸で生まれ、稲荷を産土神としたという。四ッ谷で稲荷といえば四谷怪談として知られるお岩さんを祀る於岩稲荷が思い浮かぶ。
 四谷左門町の御手先同心(手先組/治安維持の役目)だった田宮家の邸内にあった稲荷で、お岩さんが1636年(寛永13年)に没した後に祀られたことで於岩稲荷と呼ばれるようになった。ほどなくして一般人も祀れるように屋敷の稲荷を開放するようになったという。
 ただし、4代目鶴屋南北の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」の初演は1825年(文政8年)なので、よく知られるようになったのはそれ以降のことだろう。
 吉通が信仰していた稲荷が於岩稲荷だったかどうかは分からない。尾張徳川家と稲荷との特別な関係があったのか、吉通個人の信仰だったのか。
 於岩稲荷は中央区新川の田宮神社に移転し、元地に明治になってから四谷於岩稲荷田宮神社として再建された。今でもお岩さんを扱う作品を作る際は出演者や関係者が田宮神社と四谷於岩稲荷田宮神社を参拝する。



『尾張志』(1844年)にはこうある。
「稲荷ノ社 市ノ邊ノ荘古渡むらにあり(橘町大木戸南)此社もとは丹羽郡石枕村にありしを正徳三年癸巳四月廿五日圓覚院君の命によりてはしめてこの處に移し奉れりこの君は江戸にて生れさせ給ひて稲荷神をことに尊崇し給ひし□はかく此御社をうつし祭らせ給ひしとなむ
 正殿 廻廊 拝殿 神楽所 御供所 寶蔵 御井 中門 表門 裏門 鳥居 表門番所
 摂社 山王ノ社 此はもと清須にありしを正徳年中ここに移し祭る 五條天神ノ社 此は同時に二の宮よりうつし祭れり 御田ノ社 長者ノ社 調(ツギ)ノ御倉(ミクラ)ノ社 専女(タウメ)ノ社 大國魂ノ社  (中略) 神主 従五位下安井下総守源重春」



 境内社の山王社と五條天神社は正徳年中(1711-1716年)に清須から移したとしている。
 御田社、長者社、調御倉社、専女社、大國魂ノ社についてはよく分からない。御田社は熱田社関連だろうか。調御倉は伊勢の内宮の関係ではないかと思う。長者社や専女社は妓楼の関係者が祀ったものだろうか。
 現在の祭神の伊弉冉尊(イザナギ)、瓊瓊杵尊(ニニギ)、猿田毘古命(サルタヒコ)、菊理媛命(ククリヒメ)がそれぞれ当てられていると思うのだけどはっきりとは言えない。



『尾張名所図会』(1844年)は、古渡稲荷社、小栗街道、犬見堂、古渡橋、闇森八幡宮を一枚の絵として描いている。
 かなり広い境内地を持つ立派な尾張造の神社だったようだ。稲荷社についてはこんなふうに書いている。
「稲荷社 古渡のうち、犬御堂の南の西側にあり。祭神伊弉冉尊・倉稲魂命・天津彦彦火瓊瓊杵尊・猿田彦命・及び住吉四大神の五座なり。國君圓覚院殿、元禄二年九月十七日、江戸四ツ谷御館にて御誕生ましまし、稲荷を生土神とし給ひし故、御崇敬あらせられ、吉見刑部少輔幸和に命じ給ひて、丹羽郡石枕村の稲荷の社をここにうつし、正徳三年四月二十五日遷座なさしめ給へり。
 末社 山王社 本社の北の方にあり。本社と同時に清須よりうつす。 五條天神社 本社の南にあり。本社と同時に丹羽郡二宮よりうつす。
(中略)
 境内に楓(かへで)樹多くありて、秋霜(しゅうそう)是を染むる時は、紅二月の花を欺き、観賞なのめならず、雅俗遊人の履歴日に絶ゆる事なく、占秋(せんしゅう)の奇観、実に府下の第一なり」
 山王と五條天神社は稲荷と同時に清須より移したといっている。だとしたら、最初から稲荷、山王、天神の3社セットだったということになる。
 住吉四大神も祀るというのは『尾張志』にはない情報だ。通常、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)で住吉三神とするのだけど、四神としているもう一柱は何だろう。住吉大社(web)では神功皇后も祀っているのだけど、古渡稲荷では神功皇后は祭神に入っていない。
 境内に楓(かえで)が多くあって、秋の紅葉はとても美しかったようだ。



 徳川吉通は1689年、3代藩主・徳川綱誠(つなのぶ/つななり)の十男として生まれた。
 1699年、父・綱誠が48歳で急死したため、11歳で4代藩主となる。
 成長後は文武両道に励み、内政面でも成果を上げて名君と呼ばれた。
 1712年、江戸では第6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)が死の床に就いていた。
 枕元に御側御用人をしていた新井白石を呼んで跡継ぎ問題を相談した。息子4人のうち3人が早世して、残されたのは幼い家継だけになっていた。ここは御三家筆頭で名君といわれる尾張の吉通に跡を継がせた方がいいんじゃないかと。
 それに対して新井白石は断固反対した。幼いとはいえ正当な世継ぎがいるのに尾張から呼んだ者を将軍にしてはお家騒動に発展しかねないからやめるべきだと。
 翌1713年。家宣死去。跡を継いで第7代将軍に就いたのは4歳の家継だった。
 一方の尾張では、前年から藩士たちが謎の死を遂げるという事件があり、問題を起こして謹慎させられていた吉通の実母も亡くなってしまった。そのことと関係があったのかどうか、吉道も23歳の若さで死去してしまう。
 一説では将軍後継問題に絡む毒殺だったともいう。
 跡を継いだ幼い息子の五郎太はこのとき3歳だった。
 しかし、この五郎太も2ヶ月で死んでしまう。これも毒殺だったのではないかと尾張ではささやかれていたという。
 その後、家督を継いで6代藩主になったのは、吉道の弟、継友だった。
 それから3年後の1716年。江戸では7代将軍の家継が病に伏せっていた。風邪と思われたがあっけなくこの世を去ってしまう。まだ7歳だった。
 このときが江戸時代を通じて尾張藩主がもっとも将軍に近づいたときだった。
 7歳では当然、世継ぎがいるはずもなく、候補者は御三家の中から探すことになった。普通であれば御三家筆頭の尾張家から出すのが筋だった。吉通を将軍にという声もあったくらいで、継友はその弟だ。家康の血を引いているし母方の家柄もよく、血筋としては申し分なかった。
 しかし、これに異を唱えたのが6代将軍・家宣の正室で7代将軍・家継の母、天英院だった。天英院が指名したのは、紀州藩の吉宗だった。
 結局、8代将軍は吉宗に決まり、その後もついに尾張藩はひとりの将軍も出すことなく明治を迎えることになる。
 尾張藩6代藩主の継友についてはあまりいい評判がない。思慮が足らずケチだったという。将軍になれずがっくりきたのかもしれない。世継ぎがないまま39歳で死去。
 跡を継いで尾張7代藩主となったのは、異母弟の宗春だった。



 吉宗の質素倹約を旨とする享保の改革に反対して宗春は積極的な規制緩和をして町を活性化させる政策をとって対立した。
 対立の要因は、単なる政策についての考え方の違いというだけではなく、家宣、吉通時代から続く将軍の地位をめぐる争いもあったと思われる。家柄からして、宗春ははっきり吉宗を見下しているところがあっただろう。万事派手好きな宗春にとって吉宗という人間はつまらない男に映ったのではないだろうか。
 吉宗の享保の改革によって江戸でも京でも、文化、芸術などは冷え切っていた。芝居も禁止、祭りも暮らしも地味に、食べ物は質素に、遊廓なんてもってのほかという時代、宗春の尾張では祭りはでできるだけ派手に、商売大いに結構、芝居興行もどんどんやって、遊廓も公認した。結果、日本中で尾張だけが浮かれ騒いでいる世の中になった。自然と金も人も尾張に集まってきた。
 古渡山王稲荷がある場所は、小栗街道(かつての鎌倉街道)と美濃路の交差点付近で、人通りが多いところだった。地理的には名古屋城から離れるものの、ここに大木戸(城内と城外を分ける関所のようなもの)があった。
 この界隈に西小路(中区松原)、富士見原(中区富士見町)、葛町(中区正木)と3つの公認遊廓ができた。もちろん公認したのは宗春だ。それぞれ茶屋が30軒から40軒、遊女はそれぞれの茶屋に200人以上いたという。
 古渡の町は、江戸時代のある一時期、名古屋一の歓楽街だったのだ。
 しかし、そんな宗春を好き放題させておくわけにはいかない。吉宗はあれこれ理由をつけて宗春を蟄居謹慎とし、藩主の座から降ろしたのち、一切の外出を禁止した。謹慎生活は30年近く続くことになる。
 1764年、宗春死去。67歳だった。
 宗春の墓には罪人を示す網がかぶせられ、許されて名誉が回復されるのは死後75年経った1839年のことだった。
 宗春の功罪についてはよく語られる。
 現在まで続く名古屋の経済、文化、芸術、産業、祭りなどは宗春の功績だといわれる。一方で尾張藩の財政を傾けたともいわれ、なんでもかんでも規制を緩和すればいいというわけではないことを思い知る。
 ただ、この時期の名古屋の町が活気に溢れ、人々が生き生きしていたことは確かだろう。犯罪を取り締まるより犯罪者を出さない政策をすべきという信念で、宗春の時代はひとりの死刑も出さなかった。
 宗春が謹慎になって以降、ほどなく遊廓も芝居小屋も廃止され、やがて名古屋の町は火が消えたようになってしまったという。



 現在の古渡稲荷神社は、神社としての見所はあまりないのだけど、かつての賑わいを想像し、移り変わった街並みを眺め、流れた時間を思うという意味で、オススメしたい。
 名古屋城下の外れの真っ暗な風景の中、ここだけが夜ごと煌々と灯りがともり、闇の中にぽっかり浮かんでいる。人波や歓声が途絶えることなく、賑わいと喧噪が朝まで続く。それは夢幻のようであり、ある意味では悪夢のようでもあったかもしれない。
 今、この神社の境内に立って、そんな光景を思い浮かべることは難しい。けれど、確かにそれはかつてここにあったのだ。




作成日 2017.3.4(最終更新日 2019.2.28)


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