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神明社(元中野)

高台移転した三位一体神社

中野神明社

読み方 しんめい-しゃ(もとなかの)
所在地 名古屋市中川区元中野町2 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十二等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
菊理比売命(くくりひめのみこと)
品陀別尊(ほむたわけのみこと)
アクセス 地下鉄名港線「日比津駅」から徒歩約33分
駐車場 なし
その他 例祭 10月7日
オススメ度

 かつての野立町字上ノ切、現在の元中野2丁目にある神明社。江戸時代は中野村だったので、他の神明社と区別するために中野神明社と称している。
 明治11年(1878年)に中野村と牛立村が合併して野立村になり、明治22年(1889年)に八熊村と西古渡町と合併して八幡村となった。その後、大正10年(1921年)に名古屋市に編入された。

『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。旧野立町に白山社、八幡社の二社を合併する社殿三棟あり。明治5年、村社に列格する」と書いている。
『尾張志』(1844年)に「神明社 中野村にあり境内に白山ノ社八幡ノ社あり」とあるので、本社が神明社で、白山社と八幡社が境内にあったということだ。
『尾張徇行記』(1822年)は、
「八幡社白山社神明社
 府志には八幡祠のみあり」
 として、安永6年(1777年)に神明白山八幡が水害にあうため、藩に願い出て村の高地に三社ともに遷座させて一境内にした、と書いている。
『寛文村々覚書』(1670年)はこうなっている。
「社 弐ヶ所 内 八幡・白山一社ニ有、神明 社内壱畝廿歩 前々除」

 総合すると、江戸時代の中野村には神明社と白山・八幡合殿の二社があって、たびたび水害に遭うので藩に申し出て三社をまとめる形で村の高台に移したということのようだ。それが江戸時代中期の1777年で、現在地ということになる。
 前々除となっていることから創建は1608年の備前検地以前と考えられる。
 水害というのは、西を流れていた中川のことだろうか。現在は中川運河となっているこの川も、自然河川だった時代はたびたび氾濫して人々を悩ませていた。
 ただ、高台といっても現在地は海抜ゼロメートル地帯なので、ここに移したからといって必ずしも安全だったわけではない。江戸時代前期までは南の海からも近かったから、台風などの被害もあっただろう。国道1号線のあたりが江戸時代以前の海岸線だった。

 神社すぐ北にある長円寺(地図)と神社の関係はどうだったのか。今は塀で隔てられているけど、かつては一体化していたのではないかと思う。
『尾張徇行記』によると、「三州針崎勝鬘寺に属す。府志になし」とあるのだけど、寺伝では平家の残党がこの地に移り住んで一族を弔うために建てたのが始まりというからけっこう古いかもしれない。
 
三河国針崎(岡崎市)の勝鬘寺(しょうまんじ/web)は、1256年(1258年とも)に創建された古刹だ。
 三河一向一揆の拠点になったことで家康に焼かれるも、江戸時代になって許され、勢いを盛り返した。長円寺もたくさんあった勝鬘寺の末寺のひとつということになる。
 

  境内社の津島社も同じ時期に移されたという話があるものの、『尾張志』などには出ていない。ということはもっと後なのか、小さな祠だったのか。江戸時代までは天王社だったはずだ。

 戦国時代に中野重吉などを輩出した尾張の中野氏は、ここ中野村出身だったとされる。
 清和源氏為義流の中野氏は、源行家の孫・為貞が中野村に住んで中野を称したのが始まりという。
 もしかすると、この中野一族がこれらの神社の創建に関わっているかもしれない。

 

作成日 2017.7.7(最終更新日 2019.6.9)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中野神明社は神明社と八幡社と白山社のセット

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