中野神明社(元中野)

高台避難した三位一体神社

中野神明社

読み方 なかの-しんめい-しゃ(もとなかの)
所在地 名古屋市中川区元中野町2 地図
創建年 不明(現状1777年)
社格等 村社・十二等級
祭神

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
菊理比売命(くくりひめのみこと)
品陀別尊(ほむたわけのみこと)

 アクセス

・地下鉄名港線「日比津駅」から徒歩約33分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 かつての野立町字上ノ切、現在の元中野2丁目にある神明社。江戸時代までは中野村だったので、他と区別するために中野神明社と称している。

『愛知縣神社名鑑』は、「旧野立町に白山社、八幡社の二社を合併する社殿三棟あり」と書いている。
『尾張志』も同じように、「神明社 中野村にあり 境内に白山社八幡社あり」としている。
『尾張徇行記』はもう少し詳しい。
「八幡社白山社神明社界内に
 府志には八幡祠のみあり」
 として、安永6年(1777年)に神明白山八幡が水害にあうため、藩に願い出て村の高地に三社ともに遷座させて一境内にした、と書いている。

 中野村にあった神明社、白山社、八幡社がたびたび水害にあうので、願い出て村の高い場所に集めてひとつの神社にしたということらしい。それが江戸時代中期の1777年ということだ。
 水害というのは、西を流れている中川のことだろう。現在は中川運河となっているこの川も、自然河川だった時代はたびたび氾濫して人々を悩ませていたという。
 ただ、高台といっても現在地は相変わらずの海抜ゼロメートル地帯なので、ここに移したからといって必ずしも安全だったわけではない。江戸時代は海岸線からも近かったから、台風などの被害もあっただろう。

 神社すぐ北にある長円寺(地図)と神社の関係はどうだったのか。今は塀で隔てられているけど、かつては一体化していたのではないかと思う。
『尾張徇行記』によると、「三州針崎勝鬘寺に属す。府志になし」とある。
 
三州は三河国のことで、針崎は岡崎、勝鬘寺(しょうまんじ)は1256年(または1258年)に創建された古刹だ。
 三河一向一揆の拠点になったことで家康に焼かれるも、江戸時代になって許され、勢いを盛り返した。長円寺もたくさんあった勝鬘寺の末寺のひとつということになる。
 長円寺の創建年はよく分からない。1752年完成の『張州府志』には載っていないということは、それ以降ということになるだろうか。
 神社がここに移されたのが1777年だから、もしかするとそれ以降かもしれない。
 

  そういうわけで、現在の中野神明社の創建年は1777年ということになるのだろうけど、それ以前の神明社、白山社、八幡社の創建年については不明ということになる。
 境内社の津島社も同じ時期に移されたという話があるものの、『尾張志』などに出ていないということはもっと後なのか、書くほどもない小さな祠だったのか。それは天王社だったはずだ。

 戦国時代に中野重吉などを輩出した尾張の中野氏は、ここ中野村出身だったとされる。
 清和源氏為義流の中野氏は、源行家の孫・為貞が中野村に住んで中野を称したのが始まりという。
 もしかすると、この中野一族がこれらの神社の創建に関わっているかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中野神明社は神明社と八幡社と白山社のセット

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