八劔社(東中島)

中島新田の守り神のひとつ

東中島八劔社

読み方 はっけん-しゃ(ひがしなかじま)
所在地 名古屋市中川区東中島町5丁目150番地 地図
創建年 1628年(江戸時代前期)
社格等 村社・十四等級
祭神 日本武命(やまとたけるのみこと)
 アクセス

・あおなみ線「中島駅」から徒歩約15分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 東中島町5丁目にある八劔社。
 かつて中島新田だったところだ。
『尾張志』の中島新田の項には、「八劔ノ社 二所 同所にあり」とある。
 そのうちの一社が東中島の八劔社で、もう一社が現在、中島新町にある八劔社(地図)だろう。中島新町の八劔社は江戸時代前期(1659年)に現在地に移ったというから、もともとは別の場所にあったようだ。もしかするとそれは中島新田の外だったかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は寛永五年(1628)という。明治5年7月、村社に列格する」
 中島新町の八劔社の創建は1631年という。あちらは棟札が残っていて、鬼頭景義をはじめ6人が勧請し、熱田社家が神主を務めたことが分かっている。
 それより3年前に建てられた東中島町の八劔社に関しては詳しい記録は残っていないようだ。
 祭神は同じくヤマトタケル(日本武尊)ということで兄弟神社のようにも思えるけど、中野新町の八劔社が他から移ってきたことからすると、別物と考えるべきかもしれない。

 それにしても、新田の住民の守り神としてどうして八劔社だったのだろう。そのことをいつも疑問に思う。
 祭神をヤマトタケルとしたのは明治以降のことなのか、あるいは江戸時代前期の創建時からそうだったのか。
 村人の認識としては八劔大神といったものだったと思うけど、では八劔大神とはどういう神だったのか。
 熱田の社人が創建に関わったとして、何故、熱田社本社からの勧請ではなく別宮の八剣宮からの勧請だったのか。
 八剣宮の成り立ちもよく分からないし、江戸時代の人たちが八剣宮や八劔大神をどう認識していたのかも分からない。

 中島新田は、江戸時代に尾張で行われた干拓による新田開発の最初期のもののひとつだ。
 源為朝の子孫とされる鬼頭景義が陣頭指揮を執って進められた。
 後に百曲街道と呼ばれることになる堤防を築いて海をせき止め、土地を干上がらせることから始める。
 埋め立てとは違って大量の土が必要ないという利点はあるものの、堤防を築く高い技術が必要で、鬼頭景義はその点で高い技術やノウハウを持っていたとされる。
 それでも、たびたび堤防が決壊して干拓は困難を極めたようだ。
 中島新田は寛永8年(1631年)に始まり、1634年に完成した。
 その後も使命感に燃える鬼頭景義はとりつかれたように新田開発にのめり込んでいくことになる。
 1657年(明暦3年)までの27年間に尾張から美濃までの27ヶ所で新田を開発し、石高を2万3千石増やしたとされる。
 その功績をたたえられ藩主の義直から帯刀を許されている。
 晩年は仏門に入ったと伝わる。

 八劔社の読み方については正式なものが分からなかったので、「はっけんしゃ」としておいた。
 神社によって「やつるぎしゃ」だったり「はちけんしゃ」だったりする。
 同じ中川区に八剱町があり、そこは「はちけんちょう」と読む。八剱町にある八劔社から町名は来ているのだけど、八剱町の八劔社も読み方は分からない。
『愛知縣神社名鑑』ではすべての神社にフリガナを振ってほしいのだけど。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

クリームホワイトの東中島八劔社

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