東中島町(ひがしなかじまちょう)5丁目にある八劔社(マピオンは東中島の八劔社を八幡社と間違えている)。 かつて中嶋新田(なかしましんでん)だったところだ。 『尾張志』(1844年)には「八劔ノ社 二所 同所にあり」とある。そのうちの一社が東中島の八劔社で、もう一社が中島新町にある八劔社(地図)だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は寛永五年(1628)という。明治5年7月、村社に列格する」 中島新町の八劔社の創建は1634年という(1631年という話もある)。あちらは棟札が残っていて、鬼頭景義をはじめ6人が勧請し、熱田社家が神主を務めたことが分かっている。 それより6年前に建てられた東中島町の八劔社に関しては詳しい記録は伝わっていないようだ。 祭神は同じくヤマトタケル(日本武尊)ということで兄弟神社のようにも思えるけど、中野新町の八劔社が他から移ってきたという話があるので、別物と考えるべきかもしれない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)には中嶋新田の項がない。調査をしたのは1655-1658年頃とされているので、その頃にはすでに中嶋新田はできていた。どうして漏れてしまったのかは分からない。 『尾張徇行記』(1822年)の中嶋新田の項を見ると少し混乱する。 「大明神二社神明二社山ノ神社風ノ宮界内一町五畝十歩前々除」 大明神二社というのが東中島と中島新町の八劔社のことだと思うのだけど確信は持てない。 神明2社は、春日神社(昭和橋通)と皇太神社(西中島)のことだと思う。 山神と風宮については追跡できなかった。どこかの境内社になっているだろうか。 すべて前々除というのであれば1608年の備前検地のときにはこの場所にあったということになるのだけど、中嶋新田の神社については例外かもしれない。 中島新町の八劔社については寛永11年(1634年)に新田を開拓した吉兵衛などが勧請したと説明があるものの、東中島の八劔社については「熱田社家松岡斎宮太夫書上張ニ、八劔社内一畝十八歩外宮田二反共ニ御除地」とあるだけで創建などについては書いていない。
それにしても、新田の住民の守り神としてどうして八劔社だったのだろう。そのことをいつも疑問に思う。 祭神をヤマトタケルとしたのは明治以降のことなのか、あるいは江戸時代前期の創建時からそうだったのか。 村人の認識としては八劔大神といったものだったと思うけど、では八劔大神とはどういう神だったのか。 熱田の社人が創建に関わったとして、何故、熱田社本社からの勧請ではなく別宮の八剣社からの勧請だったのか。 八剣社の成り立ちもよく分からないし、江戸時代の人たちが八剣社や八劔大神をどう認識していたのかも分からない。
中島新田は、江戸時代に尾張で行われた干拓による新田開発の最初期のもののひとつだ。 源為朝の子孫とされる鬼頭景義が陣頭指揮を執って進められた。 後に百曲街道と呼ばれることになる堤防を築いて海をせき止め、土地を干上がらせることから始めた。 埋め立てとは違って大量の土が必要ないという利点はあるものの、堤防を築く高い技術が必要で、鬼頭景義はその点で技術やノウハウを持っていたとされる。 それでも、たびたび堤が決壊して干拓は困難を極めたようだ。 中島新田は寛永8年(1631年)に始まり、寛永11年(1634年)に完成した。 その後も使命感に燃える鬼頭景義はとりつかれたように新田開発にのめり込んでいくことになる。 1657年(明暦3年)までの27年間に尾張から美濃までの27ヶ所で新田を開発し、石高を2万3千石増やしたとされる。 その功績をたたえられ藩主の義直から帯刀を許されている。 晩年は仏門に入ったと伝わる。
今昔マップ(1888-1898年)を見ると、明治から現在までふたつの八劔社の位置は変わっていない。おそらく江戸時代からここにあったのだろう。 百曲街道は今の通りよりも少し南だったため、2社の八劔社には長い参道があったようだ。荒子川を真ん中に挟んで東西に並ぶ恰好になっていた。 もともと中嶋新田の集落は分散していて、大正時代に中央を中島、東西を東中島、西中島とした。中島は三軒家とも呼ばれたようだ。 昭和になってひとまとめにして中島新町となった。その頃、百曲街道も真っ直ぐに付け替えられている。 本格的に区画整理されたのは1970年代以降で、その頃までにはすっかり田んぼも消えて住宅地になった。 新田の守り神から住宅地の守り神へ。神社は時代と共にその役割を変えていく。この先もそうだろう。
作成日 2017.10.22(最終更新日 2019.6.29)
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