津島社(岩塚)

時の流れのままにそこに在ること

読み方 つしま-しゃ(いわつか)
所在地 名古屋市中村区岩塚町林高寺東40 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 素盞男命(すさのおのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「岩塚駅」から徒歩約20分
駐車場 なし
その他 例祭 旧暦6月16日
オススメ度

 入り口の社号標には「津嶌神社」と彫られている。
 神社本庁の登録社名は普通に「津島社」となっている。
 総本社である津島市の津島神社(web)に関する古い記録でもこの「嶌」の表記は見たことがない。他の異字体の嶋はよく目にするけど、嶌はほとんど見ない。歌手の手嶌葵くらいしか印象がない。特に意味の違いはないようなので、この神社の人たちのちょっとしたこだわりということかもしれない。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、『尾張殉行記』に”再建明暦四戌年(1658)也”とあり、古くから厄払天王と称して氏子の崇敬あつく岩塚東町の守護神として鎮座する。明治六年据置公許となる」

『尾張徇行記』(1822年)を見るとこうある。
「【岩塚村祠官吉田内記書上帳ニ】、天王社内六畝外ニ田五畝倶ニ前々除再建ハ明暦四戌年也」
 前々除とあるので、1608年の備前検地以前にはすでにあったことが分かる。再建が1658年だったのは確かだろうけど、それが最初の再建だったとは限らない。

 尾張の名古屋城下では疫病除けとして牛頭天王を祀る天王社が多く建てられた。しかしそれらは江戸時代中期の1700年代のことだ。
 この天王社(津島社)の創建が江戸時代以前だとすると、名古屋城下の天王社とは違う性格の神社だったと考えられる。
 厄払天王といっていたのなら、やはり祀っていたのは牛頭天王で、津島神社から勧請したとするのが妥当だだろう。津島神社は中世、津島牛頭天王社と称して牛頭天王を祀っていた。
 この時期、牛頭天王=須佐之男という認識が尾張国の人たちにあったかどうかは分からない。
 正式に祭神をスサノオ(素盞男命)としたのは明治の神仏分離令以降だろう。

 本社前の石灯籠に「厄払天王」と「八劔○○」と彫られている。
 その部分を意識して撮らなかったので下の方が切れてしまって写っていないため、○○の部分が分からないのだけど、熱田神宮(web)の別宮・八剣社も関係があるようだ。近くにあった八劔社を明治か大正に合祀したということかもしれない。

 神社の少し南を東西に佐屋路が通っていた。
 佐屋路は東海道の熱田湊から桑名までの海路を避けたい人のための脇街道として江戸時代前期の1634年に整備された街道だ。尾張藩主の義直が家光上洛のために開いたともされる。
 それ以前から佐屋路に相当する道はあり、熱田と津島を結んでいたため、津島街道とも呼ばれた。
 なので、佐屋路沿いに天王社があるのは当然といえば当然のことだ。
 ちょっと疑問に思ったのは、佐屋路から90メートルほど北に入ったところにあり、社殿が東向きに建っていることだ。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは集落内で、南には家が建っていることから、この頃はすでに東から入る恰好になっていたと考えられる。江戸時代中期以前の状況は分からないけど、江戸時代後期にはすでに現状のようになっていたのではないだろうか。

 旧佐屋路から北へ細い道を入り、しばらく進んだ左手に神社入り口がある。鳥居はない。
 民家と民家の間の私道のようなところを通り抜け、舗装が途切れたところから先が境内だ。ここにも鳥居がない。
 他にも何か足りない気がすると思ったら手水舎がない。水が出ないのではなく、水盤そのものがない。
 境内の奥に拝殿があり、その向こうに石垣で高台が築かれ、本殿が乗っている。小型の狛犬もいる。
 社殿を取り囲むようにクロガネモチなどの巨木が立っており、葉が生い茂って木漏れ日の風景を作りだしている。
 とても静かだ。神は留守か昼寝でもしているみたいに。
 捨て置かれているというと言葉が悪いけど、放置されている感は強い。ただ、それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。神社が風景に溶け込み、自然と一体化している姿は、これはこれでいいじゃないかと思った。
 流れた歳月は残酷でもあり優しくもある。

 

作成日 2017.6.8(最終更新日 2019.4.29)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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