熱田区八番にある寶田社(宝田社)。
八番というのは、江戸時代前期(1646-1649年)に尾張藩主導で行われた干拓事業によってできた熱田新田の番割で、一番割から三十三番割のうちの八番割だったところだ。
熱田沖の遠浅の海をせき止めて干上がらせ、そこに田畑を作った。
その後も官民あわせて広大な土地を干拓したため、江戸時代を通じて尾張藩の土地はかなり広がった。現在の名古屋市の南西部の大半がそうやってできた土地だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は寛永七年(1630)5月という。八番町一丁目から六丁目までの産土神として崇敬あつく、明治5年5月、村社に列格する」
しかし、1630年創建というのはあり得ないのではないか。というのも、熱田新田の開発が始まったのは1646年のことで、1630年のここは海だったからだ。
1630年代にまず中島新田が開発されているのだけど、それはここからもっと西だ。
考えられるとすると、創建されたのは別の場所で、熱田新田ができてからここに移されてきたということだ。もしそうだとすれば、そういう話が伝わっていると思うのだけど、どこにもそんなことは書かれていない。
『尾張志』(1844年)は「寶田社 八九番割の氏神也」と書いている。
それに対して『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「熱田社人磯部松本太夫書上帳ニ、八九番割氏神室田社内四畝廿七歩、外宮田一反二十二歩共ニ年貢地」
室田社は寶田社の書き間違い、もしくは誤植なのか、もともと室田社だったのを縁起のよさそうな寶田社に改めたのか、どちらだろう。
いずれも創建年などは書かれていない。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、勧請の年月は詳らかではないとしている。
『愛知縣神社名鑑』がいう1630年創建というのはどこから来ている話なのか。
祭神は保食神(ウケモチノカミ)となっている。
ウケモチノカミは、『古事記』には登場せず、『日本書紀』のみに出てくる食物の神だ。女神と考えられている。
アマテラスはツクヨミ(月夜見尊)に、葦原中国(あしはらのなかつくに/地上のこと)にウケモチノカミというのがいるから見てくるようにと命じる。
ツクヨミを歓迎しようとウケモチノカミが口から食物をはき出してもてなしたところ、ツクヨミは汚らわしいと怒ってウケモチノカミを斬り殺してしまった。
それを知ったアマテラスは激怒し、二度とツクヨミには会わないと言って姉と弟は仲違いしてしまう。以降、昼と夜に分かれて会わなくなった。
代わりに天熊人(アメノクマヒト)を使わしたところ、死んだウケモチノカミの体から五穀や様々な食べ物が生まれており、これを持ち帰って献上するとアマテラスは大変喜んで地上の民に分け与えた、というのがウケモチノカミに関する物語だ。
『古事記』では同じようなエピソードがスサノオ(素戔嗚尊)とオオゲツヒメ(大宜都比売)の話として語られている。
ウケモチの「ウケ」は、豊受大神の「ウケ」や宇迦之御魂神の「ウカ」と同じ食物を表す言葉で、これららの神は同一視されることもある。
そのため、稲荷神社でウケモチノカミを祭神としているところもある。
ただ、名古屋市内の神社でウケモチノカミを単独の主祭神として祀っているところはここくらいではないだろうか。
寶田(宝田)というのは文字通り、宝のような田という意味で名付けられたのだろう。このあたりの地名ではない。
田畑の神として食物神であるウケモチノカミを祀ったというのは不自然ではないのだけど、ウカノミタマ(稲荷神)を祀る稲荷社とせずウケモチノカミを祀る寶田社としたのは何故だろう。稲荷社とはまったく別の方向性で建てられた神社だったということだろうか。
社殿は全体的に新しく古い形式を受け継いでいるかどうか分からないのだけど、鳥居は神明鳥居で、拝殿はサッシ扉の付いたコンクリート製、その奥にコンクリート階段がくっついた二階建ての事務所のような作りの建物があり、その中に本殿が収まっている。
本殿は男神千木(外削)の神明造のような流造のようなで、女神のウケモチノカミを祀るなら女神千木(内削)の方がふさわしいのではないかと思うけど、そのあたりは必ずしも絶対的なものではない。
『愛知縣神社名鑑』に、「明治26年社殿を改築 明治44年12月石鳥居を建造した。昭和52年4月社殿を造営する」とあるのだけど、覆殿はもっと新しいもののように見えた。
明治44年に「石鳥居を建造」ということは、それまで鳥居はなかったのかもしれない。神明鳥居を発注したのが神社側だったのか、業者が勝手にそうしたのかは分からない。
今の社殿は昭和52年ということだけど、この斬新なデザインは誰が考えたのか。
以上のようにややちぐはぐで釈然としない部分がありつつも、なんとなく気になる神社ではある。
作成日 2017.10.10(最終更新日 2019.9.10)
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