ちょっとしっくりこない ![]() | |
| 読み方 | たからだ-しゃ(はちばん) |
| 所在地 | 名古屋市熱田区八番2丁目8-13 地図 |
| 創建年 | 1630年(江戸時代前期) |
| 旧社格・等級等 | 旧村社・十四等級 |
| 祭神 | 保食神(ウケモチ) |
| アクセス | 地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約9分 |
| 駐車場 | なし |
| 祭礼・その他 | 例祭 10月13日 |
| 神紋 | |
| オススメ度 | * |
| ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 寶田社の社名の由来は分からない | |
熱田区八番にある寶田社(宝田社)。
八番というのは、江戸時代前期(1646-1649年)に尾張藩主導で行われた干拓事業によってできた熱田新田(御新田)の番割で、一番割から三十三番割のうちの八番割だったところだ。
熱田沖の遠浅の海をせき止めて干上がらせ、そこに田畑を作った。
その後も官民あわせて広大な土地を干拓したため、江戸時代を通じて尾張藩の土地はかなり広がった。現在の名古屋市の南西部の大半がそうやってできた土地だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は寛永七年(1630)5月という。八番町一丁目から六丁目までの産土神として崇敬あつく、明治5年5月、村社に列格する」
しかし、1630年創建というのはあり得ないのではないか。というのも、熱田新田の開発が始まったのは1646年のことで、1630年のここは海だったからだ。
1630年代にまず中島新田が開発されているのだけど、それはここからもっと西だ。
考えられるとすると、創建されたのは別の場所で、熱田新田ができてからここに移されてきたということだ。もしそうだとすれば、そういう話が伝わっていると思うのだけど、どこにもそんなことは書かれていない。
『尾張志』(1844年)は「寶田社 八九番割の氏神也」と書いている。
それに対して『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「熱田社人磯部松本太夫書上帳ニ、八九番割氏神室田社内四畝廿七歩、外宮田一反二十二歩共ニ年貢地」
室田社は寶田社の書き間違い、もしくは誤植なのか、もともと室田社だったのを縁起のよさそうな寶田社に改めたのか、どちらだろう。
いずれも創建年などは書かれていない。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、勧請の年月は詳らかではないとしている。
『愛知縣神社名鑑』がいう1630年創建というのはどこから来ている話なのか。
祭神は保食神(ウケモチノカミ)となっている。
保食神は、『古事記』には登場せず、『日本書紀』のみに出てくる食物の神だ。一般的に女神と考えられている。
天照大神(アマテラス)は月夜見尊(ツキヨミ)に、葦原中国(あしはらのなかつくに/地上のこと)に保食神というのがいるから見てくるようにと命じる。
月夜見尊を歓迎しようと保食神が口から食物をはき出してもてなしたところ、月夜見尊は汚らわしいと怒って保食神を斬り殺してしまった。
それを知った天照大神は激怒し、月夜見尊とは二度と会わないと言って姉と弟は仲違いしてしまう。以降、昼と夜に分かれて会わなくなった。
代わりに天熊人(アメノクマヒト)を使わしたところ、死んだ保食神の体から五穀や様々な食べ物が生まれており、これを持ち帰って献上すると天照大神は大変喜んで地上の民に分け与えた、というのが保食神に関する物語だ。
『古事記』では同じようなエピソードが須佐之男命(スサノオ)と大宜都比売(オオゲツヒメ)の話として語られている。
ウケモチの”ウケ”は、豊受大神の”ウケ”や宇迦之御魂神の”ウカ”と同じ食物を表す言葉で、これららの神は同一視されることもある。
そのため、稲荷神社で保食神を祭神としているところもある。
ただ、名古屋市内の神社で保食神を単独の主祭神として祀っているところはここくらいではないだろうか。
寶田(宝田)というのは文字通り、宝のような田という意味で名付けられたのだろう。このあたりの地名ではない。
田畑の神として食物神である保食神を祀ったというのは不自然ではないのだけど、宇迦之御魂神を祀る稲荷社とせず保食神を祀る寶田社としたのは何故だろう。稲荷社とはまったく別の方向性で建てられた神社だったということだろうか。
社殿は全体的に新しく古い形式を受け継いでいるかどうか分からないのだけど、鳥居は神明鳥居で、拝殿はサッシ扉の付いたコンクリート製、その奥にコンクリート階段がくっついた二階建ての事務所のような作りの建物があり、その中に本殿が収まっている。
本殿は男神千木(外削)の神明造のような流造のようなで、女神とされる保食神を祀るなら女神千木(内削)の方がふさわしいのではないかと思うけど、そのあたりは必ずしも絶対的なものではない。
『愛知縣神社名鑑』に、「明治26年社殿を改築 明治44年12月石鳥居を建造した。昭和52年4月社殿を造営する」とあるのだけど、覆殿はもっと新しいもののように見えた。
明治44年に「石鳥居を建造」ということは、それまで鳥居はなかったのかもしれない。神明鳥居を発注したのが神社側だったのか、業者が勝手にそうしたのかは分からない。
今の社殿は昭和52年ということだけど、この斬新なデザインは誰が考えたのか。
以上のようにややちぐはぐで釈然としない部分がありつつも、なんとなく気になる神社ではある。
作成日 2017.10.10(最終更新日 2026.2.24)

