徳川家康の四男で清洲藩主の松平忠吉(まつだいらただよし)が病気平癒の祈願をしたところ、無事回復したため社殿を造営したのが、この富部神社だという(このとき海雲山天福寺も創建したというけど、それはおそらく現存していない)。 しかし、創建のいきさつについてははっきりしないところがあり、祭神についてもやや混乱が見られる。 祈願をしたのが1603年(慶長8年)で社殿を建てたのが1606年(慶長11年)とも、社殿を創建したのが1603年という説もあり、津島神社(web)からスサノオを勧請したとも、津島神社摂社の蛇毒社から勧請したともいい、本当のところがよく分からない。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。 「創建は不明。往古は字神林一番地天神山に鎮座のところ、慶長八年(1603年)、清洲城主徳川忠吉、病平癒の報賽により、今の所に社地を移し社殿を造営し、社領百石を寄進する」 往古(おうこ)は大昔ということで、報賽(ほうさい)は願いが叶ったお礼に神仏に参拝することをいう。 字神林一番地天神山というのは、おそらく現在地のやや西、今の呼続公園の中だと思う。『尾張名所図会』(1844年)には社殿の西に「天王旧地」として小さな祠が描かれているから、これがそうだろう。 忠吉が病気平気の祈願を行ったのは、スサノオとしているけど本当だろうか。あるいは、神仏習合の牛頭天王(こずてんのう)かもしれない。しかし、『尾張名所図会』には蛇毒神社(じゃどくじんじゃ)とあり、戸部天王、蛇毒神天王とも呼ばれていたというから、蛇毒気神(ダドクケノカミ)だったかもしれない。 清洲の藩主だった忠吉は、何故、津島神社ではなくわざわざ呼続あたりまで来て祈願しなければならなかったのか。清洲城(web/地図)からここまでは直線距離で15キロほどある。津島神社(地図)までも12キロあるから距離的にはさほど変わらないとしても、津島神社は牛頭天王(=スサノオ)の総本社だ。にもかかわらず、あえて呼続まで来る理由はなんだったのか。本人が来たわけではなく、祈願をしてもらったということだろうか。
松平忠吉は、1580年、家康の四男として浜松城(web)下(静岡県浜松市)で生まれた。 のちに二代将軍となる秀忠とは母を同じくする実の弟だ。 井伊直政の娘・政子を正室に迎えているから、直政は舅(しゅうと)に当たる。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』(web)を観た人は覚えているだろうか。直虎が後見をするしないでもめていた子供(虎松)がのちの井伊直政だ。直政は家康の元で武功を重ね、徳川四天王と呼ばれるようになる。 1600年の関ヶ原の戦いのとき、忠吉は21歳だった。井伊直政の後見で初陣を飾り、福島正則と先陣を争って島津豊久を討ち取るなどの武功を立てた。 戦後は尾張国と美濃国を領し、清洲52万石を与えられて清洲城主となった。 しかし、1607年、忠吉は28歳の若さで亡くなることになる。関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が原因だとも、悪性の腫瘍によるものともされている。一説では寄生虫にやられたともいう。 優秀な人物で人望も厚く、家康は関ヶ原で失態を犯した秀忠に代えて忠吉を次期将軍にしようと考えていたという話があり、秀忠側によって暗殺されたのではないかという説もある。 富部神社の由緒にあるように、1603年当時、病気になっていたことは事実だったようで、1604年には病気療養のため湯治に出かけたり、1605年には一時、危篤状態に陥ったという記録がある。 ゆえに、忠吉が1603年に病気平癒の祈願をして、1605年に危篤になったのち回復したので、1606年に社殿を造営したという流れは間違っていないように思う。 しかしながら、翌1607年には死去してしまったのだから、回復したとは言えなかったかもしれない。 忠吉は、何の病気に苦しみ、どういう神に祈願したのかが、やはり問題となってくる。
ヒントは隣り合うようにして建っている長楽寺(地図)の由緒にあった。 寺伝によると、平安時代前期の821年、弘法大師空海が巡礼の途中で呼続の浜に七堂伽藍を創建し、真言宗戸部道場寛蔵寺と命名して清水叱枳眞天を鎮守として安置したのが寺の始まりという。 一時は隆盛を極めたものの、その後寂れ、室町時代から戦国時代へと移る時期の1470年頃、義山禅師が再興したと伝わる。 1508年に今川氏が堂を再建し、この頃、曹洞宗の寺となり、明谷禅師が寺号を長楽寺と改めた。 1603年に忠吉が病気平癒祈願を行ったのは、この長楽寺の中にあったスサノオを祀る祠だったらしい。 その祠を1606年に現在富部神社がある場所に移し、社殿を造営したということのようだ。 そのとき、神社の東に神宮寺として海雲山天福寺も建てている(明治になって廃寺)。 かつての長楽寺は、今より西の呼続公園になっている場所にあったと思われる。スサノオの祠はその境内にあったということで、「東に移した」という表現になったのだろう。天神山という小山でもあったのではないだろうか。 長楽寺の正式名は、稲荷山長楽寺で、堂の横には続きになって清水稲荷神社がある。鎮守の清水叱枳尼眞天は、清水稲荷神社に安置されているとのことだ。
祈願と創建に関するいきさつは以上のような理解でいいとして、残る問題は願った対象が本当に素戔嗚尊(スサノオ)だったのか、という点だ。 津島神社は早くから神仏習合の仏寄りの神社で、中世はスサノオではなく牛頭天王を祀っていた。あるいは、もともとはスサノオを祀っていたのが、中世に牛頭天王と習合したという説もある。 牛頭天王(ごずてんのう)は、釈迦の生誕地ゆかりの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、日本に入ってきてスサノオと同一視されるなど神仏習合の祇園神として祀られるようになった神だ。 長楽寺の中に祀られていたのが牛頭天王ではなくスサノオだったというのならそうなのだろうけど、寺の中ということで当然神道のスサノオではない。 では、何故、蛇毒神社などと呼ばれていたのか。 津島神社の摂社に荒御魂社(あらみたまのやしろ)があり、スサノオの荒魂(あらみたま/神の荒々しい面)を祀るとされる。 これが元は蛇毒神社と称して八岐大蛇(やまたのおろち)の御霊を祀っていたというのだ。 京都の祇園社(八坂神社/web)でも蛇毒気神(ダドクケノカミ)が祀られており、これはヤマタノオロチが変化したものとされている。 長楽寺がいつどこからスサノオを勧請して祠を建てたのか分からないのだけど、もしかしたらそれはスサノオではなくヤマタノオロチ=ダドクケノカミだったのかもしれない。少なくとも、江戸期の人たちにとってそういう認識だったからこそ、富部神社は蛇毒神社や蛇毒神天王などと呼ばれていたのだろう。 ダドクケノカミ(蛇毒気神)は、牛頭天王とその妻・婆梨采女(はりさいじょ)の八人の子供のうちのひとり、または婆梨采女がダドクケノカミという。 ダドクケノカミは疫病の親玉みたいな神で、良くも悪くも強烈な力を持っているとされている。その疫病の神を祀るというのも日本らしい発想なのだけど、要するに毒をもって毒を制すという発想に基づいている。怨霊化した人間を神として祀ってしまうというのにも通じるものがある。 もし、忠吉が病気平癒を祈願した対象がダドクケノカミだったとするならば、その時点で病はかなり深刻なものだったのかもしれない。スサノオあたりにお願いしているくらいではらちが開かないということで、ハイリスク・ハイリターンのダドクケノカミに願った可能性はある。 にもかかわらず命を落とすことになったということは、ダドクケノカミの力を借りつつそれを抑え込めなかったということだろうか。 以上、想像をまじえつつ書いてみたけど、実際はもっと平和的で穏やかなものだったのかもしれない。 ただ、現在の祭神のスサノオの起源を辿るとダドクケノカミに行きつくとなれば、安易に願い事をするのはちょっと怖い気もする。
忠吉が建てた本殿は、桃山時代建築の姿を残すということで、国の重要文化財に指定されている。 残念ながら拝殿(祭文殿)に遮られて姿をほとんど見ることができない(隣の清水稲荷の横から全体が見える)。 一間社流造の檜皮葺で、全体が弁柄漆(べんがらうるし)で塗られている他、胡粉(ごふん)や黒漆が使われ、彫刻類には鮮やかな彩色が施さている。 享保12年(1727年)作の山車(高砂車)があり、こちらは名古屋市指定有形文化財となっている。 『尾張名所図会』に描かれているのを見ると、拝殿、祭文殿、廻廊、本殿を一列に並べる尾張造の典型的なスタイルだったことが分かる。 現在は拝殿がなく、祭文殿が拝殿を兼ねている。
最後に気になることを2つ3つ書いておくと、境内社として居森社があることと、戸部村にあった若宮八幡社と白山社がどうなってしまったのかということがある。 居森社は津島神社の境内社で、社伝によると540年に大神が津島の地に初めて現れた際、蘇民将来の末裔という老女が霊鳩の託宣によって森の中に神を奉ったのが居森社だという。 今ひとつよく分からない話なのだけど、現在はスサノオの幸御霊を祀るとしている。その居森社を津島から富部神社に勧請したのも忠吉だったのだろうか。 白山社は子持山(呼続町8丁目)に鎮座していたものを明治41年(1908年)に富部神社に合祀したという。『愛知縣神社名鑑』には書かれていないのだけど、『南区の神社を巡る』によると相殿に応神天皇とともに白山比咩神が祀られているようだ。それなら納得だけど、この応神天皇はどこの八幡社から持ってきたものなのだろう。 若宮八幡社に関してはどうなったか辿れていない。これは858年創建とされる古い神社で戸部村の氏神だったという。祭神が宗像三女神だったらしいのだけど、そんな重要な神社が行方知れずというのは気になるところだ。 もしかすると、相殿として祀られている応神天皇というのは、もともと若宮八幡を合祀したもので、それが後に八幡社となり、祭神も宗像三女神から応神天皇に変えられたということかもしれない。
創建から400年以上の歳月が流れ、蛇毒気神の毒気もすっかり抜けただろうか。境内の空気はさわやかですがすがしいものに感じられた。
作成日 2017.4.17(最終更新日 2019.8.8)
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