大秋八幡社

別の歴史が埋もれていそうな八幡社

大秋八幡社境内と拝殿

読み方 おおあき-はちまん-しゃ
所在地 名古屋市中村区大秋町2-81 地図
創建年 不明
社格等 村社・十二等級
祭神

品陀和気命(ほむだわけのみこと/応神天皇)

アクセス

・地下鉄東山線「本陣駅」から徒歩約8分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 かつてこのあたりは大脇という地名で、大秋重郎左衛門が大秋城を築いたことから大秋と呼ばれるようになったという。それゆえ八幡社も大秋八幡と名付けられたというのだけど、この八幡社はもともと神之宮(現在地から見て400メートルほど北西の中村区上ノ宮町)にあったとされる。
 少し整理が必要だ。

 創建年についてはよく分かっていない。
 境内由緒書きはこう説明する。
「天文(1532)の昔、口碑によれば 今川氏豊の属す士 大秋村の住人 大秋十郎左衛門 守護神と崇め祭祀されたによって庶民も厚く景仰するところであった その後、元禄十三年(1700年)八幡大神の御神託により 老松生い茂る大秋城址のこの地に移し祭られたと伝えられる」
 往古といえるほど大昔に建てられたかどうかはともかく、1532年といえば信長が生まれる前のことだ(信長は1534年生まれ)。
 今川氏豊は那古野城主で、信長の父・信秀と争っていた。信秀が那古野城を奪い、信長は那古野城で生まれたとされている(異説あり)。
 口碑というのは碑になるくらいの言い伝えといった意味ではあるけど、記録があるというわけではない。なので、大秋十郎左衛門がこの八幡社を建てたのかどうかはなんとも言えない。
 大秋十郎左衛門や大秋城については記録が乏しく、分かっていることは少ない。
 大秋城は周囲を川に囲まれた城だったとされる。今は離れたところを庄内川が流れているくらいで川といったものはなく、当時の様子を思い浮かべるのは難しい。
 大秋城を築城したのが大秋十郎左衛門だったのかどうかも分からない。大秋十郎左衛門は、信長と信勝(信長の弟)が戦った稲生合戦で信勝側についていたらしい。
 主君の今川氏豊が没した後は、織田家重臣の林秀貞に従ったとされる。
 林秀貞は信長の後見人だったも関わらず、当初は反信長派だった。その後あれやこれやあって、信長時代の織田家の筆頭家老となった人物だ。その下についた大秋十郎左衛門がどうなったのかは伝わっていない。
 大秋城もその後、廃城になったようで、遺構などは残っていない。

「八幡大神の御神託」云々は置いておいて、1700年に大秋城跡だった現在地に遷座したというのは事実なのだろうと思う。
 ただ、気になるのが、旧地の大脇郷というところは熱田神宮の神宮領で、産土神として祀られたという点だ。だったらそれは八幡神ではないのではないか。普通に考えてヤマトタケルとかじゃないだろうか。熱田神宮領に八幡神を祀る必然はないような気がする。
『尾張志』の大秋村の項に「文和三年四月廿三日の熱田御神領目録に愛智郡大脇ノ郷とあり」とある。文和三年は1354年で、その頃は大脇郷という地名だったことが分かる。
 八幡社については、「大秋むらにあり 境内に秋葉の社あり」とあっさり紹介するにとどまる。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「社伝の旧御神領愛智郡大脇の郷又は弘江縣則武の産土神として鎮座すと『尾張志』に 大秋村八幡社とあり、『木村家々録』に則武に八幡社三社あり。その中当社は最も古く、今川氏の付属大秋重郎左ヱ門、今川滅亡の後、この地に住し木村義重郎と改名した。社地附近を大秋と呼ぶ永禄四辛酉年(1561)の事なり、と 社蔵の棟札に元禄十三年(1700)奉造八幡宮とある」
 ちょっと分かりづらい部分があって、いろいろ混乱する。
 大脇または則武の産土神だったということを書きつつ、『木村家々録』には則武に八幡社が三社あると書かれていると紹介している。
 則武は今でいうと名古屋駅裏にあった村で、大秋から見ると南東に位置する。
 熱田神宮領だった大脇だったのか、則武村の産土神だったのかでは意味がだいぶ違ってくると思うのだけど、その点もはっきりしないということだろうか。
『木村家々録』がいつからいつまでを記録したものなのかが分からない。
 今川滅亡の後、大秋十郎左衛門がこの地に移ったというのも信じていいのかどうか。 
 今川氏豊の没年についてははっきりしない。1560年の桶狭間の戦いの後ということはないと思うけどどうだろう。今川家の実質的な滅亡は1569年のことだ。その後に林秀貞の下についてこの地に移ったという可能性もあるだろうか。
 そもそも、大秋城があったから大秋と呼ばれるようになったという話と、今川滅亡後に大秋十郎左衛門がこの地に移ってきて木村義重郎と名を変えたという話は矛盾する。
『尾張国地名考』の中で津田正生は大秋村のことを「祝言の正字也」と書いている。
 大秋十郎左衛門はどこへ行った? 大秋村の由来が大秋十郎左衛門と大秋城から来ているという話はひょっとすると作り話なのかとさえ思えてくる。
 混乱ついでに書いておくと、『信長公記』の中で大脇城というのが出てくるのだけど、それは大秋城を指しているらしい。大脇城というのは豊明にもあったとされているものの、清洲と熱田の間に大脇城があるとしているので、やはり大秋城のことをいっているようだ。
 戦国時代はまだ大脇と大秋の表記が混在していたということか。

 話が脱線して書いている本人が迷子になってしまっているのだけど、確かなことは、神社が持っている棟札に「元禄十三年(1700年)奉造八幡宮」とあるのなら、江戸時代中期の1700年には八幡宮だったということだ。
 大脇、もしくは則武の産土神として創建されたときに八幡社だったのか違う神を祀る神社だったのかは分からない。
 遷座した現地が大秋城址だという点は間違いではないように思う。
『木村家々録』にある則武の八幡社三社というのは、大秋八幡社、松原八幡社、中島八幡社のことだろうか。

 神社の感想をいうと、なんかちょっと変わった八幡社だなと思った。境内の様子の雰囲気が民家の庭みたいだ。
 社殿の様式も八幡社らしくなく、本当にここは八幡社だったのかなと思う。
 境内社に加佐登社がある。三重県鈴鹿市にある加佐登神社(かさどじんじゃ)関係のものだろう。名古屋ではかなり珍しい。他では見たことがない。
 ヤマトタケルの陵墓とも伝わる白鳥塚古墳の隣にある神社で、ヤマトタケルが最後まで持っていた笠と杖を御神体として祀っている。
 ここに熱田神宮との関わりが少し感じられるようにも思う。
 この神社の本来の姿を発掘すると、そこには興味深い歴史がありそうな気がするのだけど、私に追跡できるのはここまでのようだ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

境内が庭化しているちょっと変わった八幡社

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