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八劔社(高須賀)

願成寺の薬師堂の守り神

高須賀八劔社

読み方 やつるぎ-しゃ(たかすか)
所在地 名古屋市中村区高須賀町7番地 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十四等級
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
宮簀姫命(みやずひめのみこと)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
建稲種命(たけいなだねのみこと)
アクセス 近鉄名古屋線「烏森駅」から徒歩約8分
駐車場 なし(薬師堂にあり)
その他 例祭 10月10日
オススメ度

 高須賀(たかすか)にある八劔社。かつてここは高須賀村だった。
 高須賀村について津田正生は『尾張國地名考』の中で、「須賀は仮字なり正字洲所(すか)なりこか通ひて住所(すみか)狭處(せこ)等の格のごとし」と書いている。
 中州のような地形ではなく、高い土地でもない場所で洲所というのはどういう意味で名付けられたのだろう。 

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「『尾張志』に高須賀村願成寺境内にあり、と寺院の守護神として草連悠久なる御社なり『尾張徇行記』には再建元和九亥年(1623)とあり高須賀一郷の氏神として崇敬あつく末社に富士、白山、厳嶋の諸社ありと、記るす。明治五年七月、村社に列格した」

 江戸時代の書の高須賀村の項を見るとこうなっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「天台宗 春日井郡野田村密蔵院末寺 高須賀山願成寺 寺内八畝弐拾歩 前々除
 薬師堂壱宇 内ニ八劔宮・白山権現・弁才天社有 寺内三反五畝歩 前々除 願成寺持分」

『尾張徇行記』(1822年)
「願成寺 府志曰、号高須賀山、天台宗、相伝、天平四年行基開基之、(中略)伽藍中世に荒廃僅存薬師堂一宇(後略)」
「願成寺書上帳ニ、(中略)先年二王門アリシカ、イツノ此カ荒敗シテ其像堂中ニ安置ス、於今二王門再建元和九亥年ノ棟札ノコレル由、八劔富士白山弁財天四社薬師堂ノ界内ニアリ、宮田七畝村除也」

『尾張志』(1844年)
「八劔社 願成寺の境内にあり
 白山ノ社 浅間社 辯才天ノ社」

 これらから分かることは、まず願成寺というお寺があって、その一角に薬師堂があり、薬師堂の守護社として八劔社(八劔宮)、白山社、弁才天があったことだ。
 願成寺は春日井市にある密蔵院の末寺だったのが中世に荒廃したようだ。密蔵院も室町時代に最盛期を迎え、戦国時代に没落しているので、その影響を受けたに違いない。
 しかしながら願成寺も薬師堂も現存しており、八劔社はその間に挟まれる格好で建っている。白山社と弁才天は八劔社に合祀されたか境内社になっているようだ。本社の左右にある小さな社がそれかもしれない。
 願成寺は732年に行基が開いたともいわれる古刹で、戦国時代に盛海という僧が再興したという。
 薬師堂は江戸時代前期に澄盛という僧が再興したと伝わる。
 本尊の阿弥陀如来像は室町期の作とされる。

 再建について『尾張徇行記』は元和九亥年(1623年)としているけど、『中村区の歴史』に願成寺所蔵の棟札の内容を紹介しており、それによると再建は寛文4年(1627年)になっている。内容は以下の通りだ。
「郷内富貴諸人快楽 寛永四丁卯 別当願成寺澄盛
 奉再建八劔宮御社一宇村氏子本願三輪次左衞門敬白
 現当二世悉地成就所九月吉祥日大工藤原朝臣木田茂兵衛」

 願成寺の境内に八劔宮がいつ建てられたのかは分からない。
 熱田の八剣宮から勧請したに違いなく、当時は八剣大明神とでもいっていただろうと思う。
 現在の祭神は熱田神宮内の八剣宮にならって日本武尊、須佐之男命、宮簀姫命、天照皇大神、建稲種命としている。
 読み方は「やつるぎ-しゃ」なのか「はっけん-しゃ」なのか「はちけん-しゃ」なのか判断がつかない。これも法則性があるようでないので、それぞれの神社が名乗った名前が正式名ということになる。

 今昔マップを見ると、高須賀村は明治以降も戦前まではあまり変わらなかったようだ。区画整理された後も田んぼは残り、田んぼが消えて家が建ち並ぶようになったのは1960年代以降のことだ。

 薬師堂の境内にはプレハブに覆われた土俵があり、訪ねたときは大相撲の夏場所(名古屋場所)が終わったところで、相撲部屋の力士たちがまだ薬師堂にいた。
 力士や関係者は八劔社の歴史などに興味はないだろうけど、場所中は参拝くらいはしてるだろうか。相撲は本来、神事だということを自覚している力士はどれくらいいるのか。外国人に説明してもよく分からないかもしれない。

 

作成日 2017.11.14(最終更新日 2019.5.10)

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