三輪神社(大須)

ここに三輪の神を呼んだのは誰なのか

大須三輪神社

読み方 みわ-じんじゃ(おおす)
所在地 名古屋市中区大須3丁目9-32 地図
創建年 不明
社格等 村社・五等級
祭神 大物主命(おおものぬしのみこと)
徳川義宜(とくがわよしのり)
 アクセス

・地下鉄名城線/鶴舞線「上前津駅」12番出口から徒歩約6分
・駐車場 なし

webサイト  公式サイト
オススメ度

 名古屋城築城前からあって、その後大須の街に飲み込まれた神社のひとつ。
 赤門交差点の一本北の細い通りを西に入ってすぐにその神社はある。
 境内に一歩足を踏み入れると、周囲の喧噪が嘘のように遠ざかる。このロケーションでこの空気を閉じ込めておくのはさすがだ。これも三輪大神のなせるわざというべきか。

 創建についてはもうひとつはっきりしない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「古くは、三輪明神と称して永禄年間(1558-1569)小林城主牧与三右ヱ門長清再興し」
 しかし、神社由緒はこういっている。
「元亀年間(1570~1572)奈良桜井三輪町から小林城に移った牧若狭守長清が深く崇敬する生まれ故郷大和三輪山に大物主神を鎮め祭ったと伝えられています」
 いやいや、ちょっと待てと思う。牧長清は1570年の3月に死去したとされているのに、その年に奈良の桜井から前津小林城に移ってきて三輪神社を創建するのは無理だろう。そもそも、牧長清の生まれ故郷が大和という話はどこから出てきたものなのか?

 牧氏は尾張守護・斯波氏の一族で、斯波高経血族の名門だ。織田家との縁が深く、長清の父・長義は信秀(信長の父)の妹を妻とし、長清は信長の妹を正室にした。
 前津小林城を築いたのは父・長義で、1548年頃とされている。
 信秀が末森城を築いたことに伴い、鎌倉街道の備えとして築城したのが小林城だった。それまで長義は名古屋市守山区の川村北城の城主を務めていた。
 つまり、長清が大和生まれなはずはなく、どうして生まれ故郷の大和から三輪神を勧請したなどという話になったのか、まったく分からない。
 長清という人は信心深い人だったようで、大須富士浅間神社大須春日神社を再興している。三輪神社も同じと考えるのが自然だ。
 なので、三輪神社を創建したのは牧長清ではなく、それ以前という可能性が高い。
 ただ、『尾張志』と『尾張名所図会』では見解が分かれている。
『尾張志』は、「三輪社 三輪町にあり大物主神をまつる神名式に大和國城上郡(しきのかみぐん)大物主神社とあるはこの本所なりはしめてここにうつし祭れる年月知がたし」としているのに対し、
『尾張名所図会』は、「三輪明神社 清浄寺の南にあり。牧氏の建立なり」とする。
 江戸時代後期にはすでに創建のいきさつがよく分からなくなっていたようだ。
 ついでに江戸時代前期(1655-1658年)の『寛文村々覚書』を見ておくと、「前津小林村 社弐ヶ所 春日大明神 おんない明神」となっている。
 おんない明神というのが三輪神社のこととも思えないけど、このとき三輪社はどうなっていたのか。
『尾張徇行記』樋口好古(1822年)も、「当村牧長清勧請する」としている。
 いずれにしても、尾張牧氏と三輪神とのつながりは見いだせない。

 尾張藩第8代藩主の徳川宗勝がこの三輪社を大事にしたようで、1745年に合力米五斗を寄進して、尾張藩は維新まで代々続けたという。
 宗勝は7代藩主・宗春の後を継いだということもあって、緊縮財政によって藩の立て直しを図った殿様だ。米五斗はちょっと少なくないかと思う。1斗が15キロだから75キロだ。金に換えたとしても数万円程度にしかならないのではないか。
 それにしても、『愛知縣神社名鑑』の合力米(こうりょくまい)という表記が引っかかった。一般的に貧しい人を救うためにほどこしで与える米のことをそう呼ぶのだけど、藩から神社に寄進した場合も合力米といったのだろうか。援助米というニュアンスだとしたら、それだけ三輪社が困っていたということか。
 天保年中(1830-1843年)の改築のときは尾張藩もいくらかは出しただろうか。
 尾張藩最後の藩主となった徳川義宜も合祀している。
 父・慶勝の影に隠れてあまり存在感がない殿様だったのだけど、18歳で死去したのも祀られた理由だろうか。
 義宜の死後、再び慶勝が藩主に返り咲き、明治を迎えることになる。

 境内にある楠に大きな矢がかけられていて、矢場の地名の由来について書かれている。
 江戸時代初期、京都の蓮華王院(れんげおういん/三十三間堂)では「通し矢」が行われていた。三十三間堂の端から矢を射て何本通せるかという腕比べだ。
 1606年に清洲藩主・松平忠吉(家康の四男)の家臣で朝岡平兵衛という人物が100本中51本を射通して「天下一」となったというのが記録に残る最初とされる。
 その後、通し矢はエスカレートしていき、ついには一昼夜で何本射通せるかということになり、尾張藩と紀州藩の一騎打ちになっていく。
 1668年に紀州藩士・葛西団右衛門が天下一になると、尾張藩も負けてはいられないということで三十三間堂と矢場を作って練習に励み、翌1669年には尾張藩士の星野勘左衛門が10,542本中通し矢8,000本でついに天下一の称号を得たのだった。
 一昼夜で矢を1万本以上射るって尋常じゃない。一日中ボーリングをやり続けて100ゲームやるのとどっちが大変だろうかってくらいだ。
 ただしこの記録は1686年に紀州藩士の和佐大八郎が総矢数13,053本中通し矢8,133本で抜き返し、それが最高記録として残ることになった。江戸中期以降は通し矢そのものがすたれてしまったようだ。
 矢場というのは弓矢の練習場のことで、それがこの近くにあった。矢場町交差点(地図)などに今も地名が残っている。味噌カツで有名な「矢場とん」の矢場もここから来ている。

 前津小林城は、矢場町交差点南東あたり(地図)にあったとされる。
 長清が死去した後、廃城となり、その跡地に清浄寺(しょうじょうじ)が建てられた。
 元禄年間(1688-1704年)に尾張藩2代藩主の光友によってこの地に建てられたという話もあるのだけど、『尾張名所図会』は、「徳寿山清浄寺無量院 前津小林の矢場町(やばまち)にあり。浄土宗、教徒知恩院末。元禄十二年此寺を海東郡津島よりうつして郭龍和尚に給わる」と書いている。
 光友は元禄13年(1700年)に死去しているから、『尾張名所図会』の方が正しいように思うのだけどどうだろう。
「柳生兵庫隠居の地 清浄寺の境内なる。此人剣の達人にて」と『尾張名所図会』でも書いているように、尾張柳生の祖で剣の達人として知られた柳生兵庫助の隠居宅がここにあったようだ。
 現在は小さな寺として現存していて、矢場地蔵と呼ばれている。

 女性宮司さんらしい工夫や気遣いが随所に見られる神社で、webサイトだけでなくブログやFaceBookで積極的に情報を発信して、訪れる人を楽しませてくれる。
 赤い糸と五円玉の縁結びや、なでウサギなどもいたりして、女性の参拝者を惹きつける魅力がある。お札やストラップなどもかわいい系のものが多い。
 鳥居が三輪鳥居(三ツ鳥居)と呼ばれる珍しいもので、名古屋ではここにしかないかもしれない。
 そもそも、名古屋は大神神社系統の神社が少ないところなのだけど、その理由はよく分からない。
 大物主と大国主は同じじゃないなんて話を始めると長くなるので、別のところで書くことにしたい。
 訪れる人をもてなし、楽しませようとする姿勢を見せるというのも、現代の神社のひとつのありようだと思う。大須に出向いた際は、ちょっと立ち寄ってみてください。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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