かつて大高城(地図)があった場所に残された八幡社。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に、治承四年(1180)十月、源頼朝が勧請し、相模国(神奈川県)小林郷丸山に鎮座の後この大高の里に遷し奉るという、明治6年10月、据置公許となる」
誤解を招く書き方で、これではこの神社を頼朝が鎌倉に建てて、頼朝が大高に移したと取れてしまう。もちろんそんなことはない。 鎌倉の鶴岡八幡宮(web)を頼朝が創建したと思っている人は多いかもしれない。しかし、それも違っている。 鶴岡八幡宮の歴史は、1063年に源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水八幡宮(web)から勧請して由比鶴岡に八幡宮を建てたことから始まる。正確に言うと、それは石清水八幡宮の若宮だった。 頼義というのは河内源氏の二代目棟梁で、武勇で知られる八幡太郎義家の父親だ。陸奥で反乱を起こした安部氏を討伐した前九年の役で一気に名を高め、以降、河内源氏が武家として別格扱いされることになる。頼朝も、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏だ。徳川家康も征夷大将軍になるために河内源氏を”自称”した。 その頼義が鶴岡に若宮を勧請したのは、前九年の役で戦死した安部氏の霊を慰め鎮めるためだったとされる。若くして命を落としたり不慮の死を遂げた人間を若宮に祀るということは古くからあった。平安時代に到っても西国の人間からすると東北の地に暮らす人々は異国の人間という意識が強かったようで、祟りを本気で恐れていたようだ。 その若宮を頼朝が小林郷北山に移したのが1180年のことだ。祖先の霊を慰めるとともにこの地を幕府の中心とすることを考えたからだった。 1191年、小町大路あたりから火が出て、社が全焼してしまうという出来事があった。 そこで頼朝はあらたに石清水八幡宮の本宮から勧請して上宮を建て、若宮を下宮とし、今の鶴岡八幡宮が完成することになった。 今、丸山にある丸山稲荷はもともと大臣山にあった稲荷で、鶴岡八幡宮再建のときに移された。 若宮があった元地には由比若宮(元八幡)がある。
大高歴史の会の説明書きによると、1500年代初頭(永正年間 1504-21年)に大高城主の花井備中守が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請して城内と麓の町屋川の二ヶ所に八幡社を建てたとしている。 この元情報がどこからのものかは分からないのだけど、少し疑う気持ちもある。時期的に少し中途半端な気がするのだけどどうだろう。もっと早い時期であってものおかしくない。 大高城は標高20メートルほどの小高い丘の上にあった城で、西の東姥神、火上山、齋山とは連続するコブのような地形になっている。大高城の場所で遺跡や古墳が見つかったという話は伝わっていないものの、この小山も古墳だった可能性は考えられる。 縄文から弥生時代にかけてすぐ北側は海で、このあたりは起伏に富んだ海岸の崖のようだった。その後、海面が下がり、川が運んだ土砂によって平地ができて、そこに人が暮らし始めた。 大高城の築城年代についてははっきりしないものの、南北朝時代に池田頼忠が居城していたという記録があるため、1300年代にはすでにあったことが分かる。 花井備中守の備中守は官位で下の名前は伝わっていない。花井氏は知多半島北部に拠点を持つ豪族で、吉川城や寺本城の城主として名を残していることから、大高城の花井氏もその一族の可能性が高い。 天文・弘治年間(1532-1558年)には知多郡東浦の水野忠氏・大膳父子が居城した。このときの水野親子は信長の父の信秀の配下だった。 1548年、今川義元の命で野々山政兼が大高城を攻めるも返り討ちにあって戦死。 1552年に信秀が死去すると、鳴海城主の山口教継が信長を見限って今川側に走り、沓掛城とともに大高城は山口教継の調略によって今川に渡ってしまう。鵜殿長助がこれを守った。 そこで信長は大高城を取り巻く位置に鷲津砦と丸根砦を築いてにらみを利かせた。 これが桶狭間の戦い直前のこのあたりの状況で、今川義元が京に上洛する途中で織田信長に討たれたというかつての通説を信じる人はもうほとんどいない。桶狭間の戦いというのは、小競り合いが続く尾張と三河の境界の状況を打開すべく今川義元が本気で尾張の織田をつぶしにかかった戦で、信長は戦略によってそれを打ち破ったというのが実際のところだった。それも奇襲などではなく、正面衝突だった。 大高城のエピソードとしてよく知られるのが松平元康の兵糧入れの話だ。 織田軍に囲まれて兵糧不足で困っていた大高城に、包囲網を突破して兵糧を届け入れたのが19歳の松平元康だった。これが後の徳川家康だ。 桶狭間で今川義元が討たれると今川勢は総崩れとなり、大高城にいた松平元康は三河の岡崎城に引きあげた。 大高城は織田家に戻ったものの、ほどなくして廃城になったと伝わる。 しかし、江戸時代に入った1616年、大高の地を領することになった尾張藩家老の志水家が城跡に屋敷を築いて住むようになり、それが明治3年まで続くことになる。 八幡社の境内には寛文十年 (1670年)に志水甲斐守が寄進した石灯寵が今も残っている。
江戸時代まで、こちらの城山八幡に参拝できるのは武士のみで、村人などは町屋川の八幡社に参ることになっていたという。江戸時代は特に志水家の屋敷があったところなので、村人などはそう簡単には近づけなかった。 しかし皮肉なことに、村にあった八幡社はその後栄えたのに対して、城山の八幡社は訪れる人も少なく、なかばうち捨てられたようになっている。両方を訪れると時の流れや時代の盛衰といったものも感じる。 かつての大高城は東西60メートル、南北32メートルほどの規模で、四方を二重の濠で囲っていたとされる。 今は本丸や二の丸の敷地が残るのみで、遺構といったものはほとんど認められない。志水家の屋敷も跡形もない。残ったのは八幡社だけだ。
芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と歌ったのは奥州平泉でのことだ。 兄の頼朝に追われ、奥州藤原氏を頼って平泉まで落ち延びた義経は、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に攻められ自害。その泰衡も頼朝軍による攻撃で敗北し、平泉で栄華を極めた奥州藤原氏は滅亡した。 その1189年から500年後の1689年に芭蕉がこの地を訪れたのは偶然ではない。 芭蕉が敬愛して止まなかった西行は藤原秀郷の流れを汲む武家藤原氏の出自で、義経が平泉にかくまわれているとき、西行もこの地を訪れている。芭蕉が旅に出た1189年は西行の500回忌に当たる年で、西行の足跡を辿るのも『おくの細道』の旅の目的のひとつだったとされる。 頼朝は義経や奥州藤原氏を征伐する際、前九年の役を意識してなぞったとされている。 前九年の役の聖地といえる斯波郡を領した足利家の分家は斯波氏を名乗り、足利尊氏が開いた室町幕府では三管領筆頭まで上り詰める。 斯波氏が守護を務めた尾張国の守護代だったのが織田家で、斯波氏は下克上によって織田家に追われることになる。 頼朝の母・由良御前は熱田社大宮司の藤原季範の娘で、頼朝は熱田で生まれたという説もある(井戸田生まれという説もある)。 熱田大宮司家は千秋家を名乗り、羽豆崎城主でもあった千秋季忠(せんしゅう すえただ)は桶狭間の戦いで戦死している。 歴史はつながりぐるぐる回る。なんだかめまいがしそうだ。
作成日 2018.10.18(最終更新日 2019.4.4)
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