これまたすごいロケーションにある神社だ。アオキスーパーなどの商業施設が入るショッピングセンターコスモの屋上というかテラスの片隅に鎮座している。周囲にはたくさんのUR団地などが建ち並び、ひとつの独立した街のようになっている。この神社はその団地の守り神なのだろうか。 敷地としてはスーパー内だとは思うのだけど、神社が先かスーパーが先だったのか。 おそらく囲われている部分が境内ということになるのだろう。社号標、由緒書き、鳥居、手水、玉垣、灯籠と、神社を構成する要素が一通り揃っている。社もけっこう立派だ。 境内の由緒書きによると、昭和55年に三重県鈴鹿市の椿大神社(つばきおおかみやしろ/web)から分霊したとある。 椿大神社は猿田彦を祀る神社の総本社とされる伊勢国の一宮だ。そこから勧請して建てた神社というのはごく少ないはずだけど、昭和55年などという近代にどうしてそれが許されたのか。しかも、こんなスーパーの片隅に。 これは非常に謎であり興味深くもある。昭和55年創建というのは本当なのだろうか。
千代が丘は昭和58年に猪高町大字猪子石と鍋屋上野町の各一部から成立した。町名はこのあたりの大地主だった平野千代という人の名前を取って名付けられたものだ。 猪高層と呼ばれる洪積層の土地で、砂と泥を多く含んだ坂道が多く、住宅を建てるには向かなかった。それを削って宅地化を始めたのが昭和37年のことで、千代が丘団地はその頃から建てられ始めた。 今昔マップで明治中頃(1888-1898年)以降の変遷をたどってみる。 明治はまだこのあたりは完全な丘陵地で何もない。神社があるすぐ南に溜め池があったことが分かる。丘陵地には針葉樹林が広がっていたようだ。 溜め池は1968-1973年の地図まであり、次の1976-1980年の地図から消えている。この間に千代が丘の開発が急速に進んだことが地図からも見てとれる。 神社が創建されたとされる昭和55年(1980年)は、千代が丘団地ができ、それに伴ってスーパーが建った時期と重なっている。アオキスーパーがいつできたのかが分かればもう少し手がかりが得られそうだけど、調べがつかなかった。 それにしても、どうして椿大神社から分社して椿神社を建てたのか。何故、それが許可されたのかもよく分からない。秘密というのではないだろうけど、何か事情があったに違いない。ひょっとすると平野千代さんと何か関係があるだろうか。
本家の椿大神社についてはブログに記事を書いた。 椿大神社で泣かされ背中を押してもらう<前編> 椿大神社の6月の風景<後編> 個人的に非常に印象深い神社だ。 その歴史は複雑で、理解するのは簡単ではない。 猿田彦の総本社を名乗るのは椿大神社だけではなく、伊勢の神宮(web)近くにある猿田彦神社(web)もそうだ。ここは宇治土公氏が邸内に祀っていたものを明治になって外に出して社殿を建てたものだ。 宇治土公氏はおそらく、伊勢の神宮が天武・持統天皇によって皇室の神社とされる以前に五十鈴川流域を支配していた氏族で、猿田彦の末裔を称している。なので、猿田彦総本社を名乗る気持ちも分かる。 椿大神社の宮司家は山本氏で、こちらも猿田彦の直系を称している。 鈴鹿というと伊勢からは60キロ以上も離れた山の麓なのだけど、古くから伊勢の国府は鈴鹿にあり、ヤマトタケルが死去したとされる能褒野(のぼの)も鈴鹿だ。 椿大神社がどういう経緯で猿田彦を祀る神社として建てられたのかはよく分からない。 境内には土公神陵(どこうしんりょう)と呼ばれる古墳がある。それは猿田彦の墓という説もあり、近くには御船磐座(みふねいわくら)もある。古くからそこで祭祀が行われていたようで、椿大神社の起源はそこから来ているのかもしれない。 土公神陵という名前からして宇治土公氏と無関係とも思えない。 伊勢の内宮・外宮と荒木田氏、度会氏、猿田彦の宇治土公氏と山本氏の関係なども興味深いのだけど、ここで扱うにはテーマが大きすぎる。
千代が丘の椿神社が誰によってここに建てたのかは分からないものの、名古屋に椿大神社の分社があることの意味は小さくない。 もう少し調べれば分かることもありそうなので、調査を継続したい。
作成日 2018.3.16(最終更新日 2019.2.16)
|