明神社

古式ゆかしい伝統の神社

明神社社殿

読み方 みょう-じんじゃ
所在地 名古屋市中村区東宿町1-57 地図
創建年 不明
社格等  村社・十二等級
祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと)

アクセス

・地下鉄東山線「中村公園駅」から徒歩約19分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 中村公園(地図)から少し西へ行ったところに明神社はある。
 明神社とはちょっと変わった名前だ。神明社ではない。みょう-じんじゃと読ませる。江戸時代までは何々明神と称する神社がたくさんあったから、その名残だろうか。
 では、元々の名前は何だったかというと、それは伝わっていない。鎌倉時代前期(1242年)に成立したとされる『東関紀行(とうかんきこう)』には「萱津の東宿社」と出てくる。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社について、「創建は古く明らかではない」とし、『東関紀行』を引き合いに出しつつ、「建曆、仁治(1211-1242)の頃の里人は熱田の摂社の神を当部落の産土神として祀っていたことが判る」とする。
 けっこう微妙な言い回しだ。これを信じるなら、創建は鎌倉期以前ということで、鎌倉時代は熱田の神を祀っていたことが分かるけど、それ以前のことについては分からないということだろう。
 現在の祭神はヤマトタケル(日本武尊)となっている。しかし、中村の西のこのあたりは熱田神宮とは直接関係がなく、村の守り神として熱田神宮からヤマトタケルを呼ぶだろうかと考えると少々疑問だ。本来は土地の産土神を祀っていたものがいつしかヤマトタケルということになってしまったということではないだろうか。

 神社の南には鎌倉街道が通っていたとされる。
 鎌倉に幕府を開いた源頼朝が、京と鎌倉を結ぶために整備した道だ。しかし、鎌倉街道は一本道というわけではなくたくさんあったので、当時の道路事情を正確に知ることは難しい。
 それ以前、中村区には古東海道が通っていたと考えられている。北西から南東にかけて、ほぼ直線上に区内を通っていた。
 古東海道が最短距離を通していたのに対して、平安、鎌倉期になると集落や宿場などもできてそれでは不便すぎるということで、住人や旅人の利便性が重視された結果、かなりカクカク折れ曲がった道になった。
 神社の少し西を庄内川と新川が流れている。川向こうは萱津(かやつ)と呼ばれた土地で、ここに渡しがあった。川を挟んで西と東にそれぞれ宿場が出来たのは鎌倉街道が整備された以降だろうか。東宿の地名は、萱津の東の宿ということから名付けられたものだ。
 鎌倉街道の宿場に建てられた神社だから創建も鎌倉初期だろうと思いきや、萱津の渡しに関しては平安時代前期の835年の記録(大政官符)に残ることから、更に時代をさかのぼることが分かっている。その頃神社が建てられたとしても不思議ではない。
 ただし、『延喜式』に載っている神社ではないので、さかのぼったとしても平安時代中期から後期といったところだろうか。
 萱津の渡しは日比津の渡しとも呼ばれ、大正時代の初めに橋が架かるまで続いた。

『東関紀行』は京から鎌倉へ向かった旅人の紀行文で、後世の松尾芭蕉などにも影響を与えたといわれるものだ。作者の候補は何人か名前が挙がっているものの、作者不詳とされる。
 たまたま市が立つ日に当たったようで、こんな文を残している。
「かやつの東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて里も響くばかりに罵りあへり。『けふは市の日になむ當りたる』とぞいふなる。手毎に空しからぬ家づとも、かの『見てのみや人に語らむ』【古今春上素性】とよめる花のかたみには、やうかはりておぼゆ。
『花ならぬ色香もしらぬ市人のいたづらならでかへる家づと』」
 大勢の人たちが市に集まってきて、それぞれ手に手に買ったものを下げて帰っていくといった様子が伝わってくる。テレビで見る年末のアメ横みたいなものだ。
『尾張名所図会』でもこのあたりのことを紹介している。
『尾張志』では、神社のことに触れて、「稲葉地村にあり 大明神ノ社 東宿といふ所にあり 此の所の氏神也」と書いている。
 江戸期には大明神の社と呼ばれていたことが分かるものの、何明神かは分からない。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で、萱津川を挟んで東側に東宿があり、今は稲葉地村に属しているけど本来は萱津村だと書いている。かつての庄内川は何度も氾濫して川筋を変えているから、東宿のあたりも川西だった時代があったのかもしれない。庄内川は、萱津川や枇杷島川とも呼ばれていた。
 それに加え、女郎墓(じょろばか)のことも紹介している。
「東宿の戌亥の方に南北に細長き墓原あり 石佛おほし 村民これを女郎墓と呼 むかし娼妓ともを埋葬たるより呼とぞ 今は東宿一切の墓所となる」
 宿場には遊女がいた。その女たちを埋葬したので女郎墓と呼ばれるようになったようだ。
 女郎墓は宿跡町1丁目に今も残る。

 この神社は何しろ社殿がすばらしい。現在のものは大正13年から昭和2年にかけて造営されたものだそうだけど、すでに歴史的建造物と呼びたいほどの風格が出ている。本来の姿をそのまま引き継いだのだろう。
 流造の本殿、弊殿、拝殿と続く昔ながらの社殿形式をとどめるところは多くない。
 とにかくカッコイイ。この社殿を見るためだけでもこの神社を訪ねる価値がある。

  今はすでになくなってしまったそうだけど、2000年頃まではオコワ祭というちょっと変わった神事が行われていたという。
 オコワとは御強と書き、餅米を蒸した米飯のことだ。元々は強飯(こわめし)といっていた。今でいうと赤飯はおこわの部類に入る。
 お櫃(ひつ)に入ったおこわを奪い合うというもので、尾張地方西部に伝わる伝統の祭りだ。
 何故か、昭和のはじめから裸で行われるようになったということで、裸祭とも呼ばれたらしい。
 そのおこわを食べると無病息災、厄除けになるということで、参加者がそれを奪い合うというちょっと過激な祭りだったという。
 この神事は室町時代くらいから行われるようになったといわれている。
 その他、トラックいっぱい積んだお菓子をばらまくということもやっていて、けっこうな賑わいだったそうだ。
 オコワ祭は行わなくなったものの、神楽屋形を持っていて、毎年、太閤まつりの日には町内の人々が曵き回すという。

 時代は移り、神社の在りようも変わったけど、古き良き伝統を受け継ぐ古式ゆかしい神社。そんなふうにたとえたくなる、いい神社だと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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