1643年(寛永20年)に鬼頭景義が開発した西福田新田にあった神社のひとつ。 今神社があるのは西福田新田の中央西寄り、福田川の左岸に当たる。 東之割、西之割、上中之割、下中之割に分かれていたとき西之割にあったことから西之割(西ノ割)熱田社とも称している。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。湊裏の鎮守の神として崇敬あつく明治5年7月、村社に列格する。昭和34年9月26日の台風により被災したが昭和40年11月復興し、昭和61年11月2日、社殿を造営改修する」 湊裏というから福田川に川湊にあっただろうか。 福田新田の干拓が1643年。尾張藩家老の志水甲斐守に与えられて新田を開発したのが1665年。検地が行われて東福田新田と西福田新田をあわせて福田新田村となったのが1684年。 熱田社の創建がどの時期だったのかは分からない。
『尾張志』(1844年)には「神明ノ社三社 山神ノ社 熱田大明神ノ社二所 六社共に福田新田村にあり」とある。 『尾張徇行記』(1822年)は西福田新田の神社についてこう書く。 「須成村祠官寺西伊豆守書上帳ニ、西福田新田ノ内熱田大明神神明 勧請ノ初ハ寛永十九年也 大明神二社 勧請ノ初ハ慶安四卯年也 熱田大明神 勧請ノ初ハ同上(慶安四卯年) 熱田大明神 勧請ノ初ハ同上(慶安四卯年) 神明社 勧請ノ初ハ寛永十九年也」 ここにある熱田大明神の中のひとつが今の福屋の熱田社だとすれば、寛永19年(1642年)もしくは慶安4年(1651年)のどちらかが創建年ということになるだろうか。
境内の由緒碑によると、志水甲斐守が新田を開発した後に、海東分、蟹江分、戸田分に分けて守護神を祀ったとある。 「明和七年(1770年)年奉造営工事村中安全長久祈願」とあるけど、これは創建のことではないだろう。 昭和61年(1986年)に福田川堤防拡幅工事に伴い西福田字湊裏24番より福屋1丁目の現在地に移したという。湊裏24番というのがどこだったのか調べがつかなかったのだけど、福田川の堤防拡張工事というからには福田川沿いだったのだろう。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)の地図を見ても現在地の近くに鳥居マークは見つけられない。 神社の現在地付近に家が数軒あるだけで、神社がある場所は田んぼだ。西之割の集落の中心はもっと南の茶屋後新田との境の堤防沿いだった。 1920年(大正9年)の地図から現れる鳥居マークがある。現在地よりだいぶ南の東海通(名古屋十四山線)が通っているすぐ南だ。もしかするとこれが福屋(西之割)熱田社の旧地だろうか。この鳥居マークがどの神社のものか謎だったのだけど、西之割熱田社のものだとすれば謎が解ける。 今昔マップで現在地に鳥居マークが現れるのが1984(昭和59年)-1989年(平成元年)からだ。現在地への遷座が昭和61年(1986年)なので、それが反映されている。 西之割全体でいうと、南の堤防沿いは戦後になって住宅地になったのに対して北の福屋1・2丁目は家もあまり増えず、今も田んぼが広がっている。
福屋の地名は、西福田村、茶屋後新田、福田前新田が合併して福屋村になったことから来ている(明治22年)。 その後、明治39年に南陽村の字となり、現在まで町名として残った。
境内社として秋葉社と塩竃社を祀っている。石柱に大正元年とあるから、そのとき初めて祀ったものだろうか。他から移したのか、最初から境内社として祀ったのかは分からない。 『愛知縣神社名鑑』は本社の祭神として軻具突智神と塩土神を祀ると書いている。本社でも祀って境内社でも同じ神を祀るのは不自然に思えるのだけど、どうなんだろう。 このあたりに塩田があったという話は聞かない。どういういきさつで塩土神(シオツチノオジ)を祀ったのかが少し気になった。 どの神社にも伝わらなかったたくさんの物語がある。もはやそれらを知ることはできないけど、何があったのだろうと想像することはできる。塩土神にまつわる何らかの物語があったのかもしれない。
作成日 2018.8.27(最終更新日 2019.8.3)
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