田中神明社

町内で守っている小さな神社

田中神明社境内と社殿

読み方 たなか-しんめい-しゃ
所在地 名古屋市緑区大高町田中4 地図
創建年 不明(1661年以前)
社格等 十四等級
祭神

国常立尊(くにのとこたちのみこと)

 アクセス

・JR東海道本線「大高駅」から徒歩約17分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 大高城址公園(地図)の入り口を探して周辺をうろついているとき、神明社の案内看板が立っているのを見つけて行ってみた。マピオンには出ておらず、行く予定もなかった神社だった。こういうときは呼ばれたなと思う。逆に、呼ばれないと行こうと思っても行けなかったりする。
 民家の脇を抜けて階段を登った先のちょっとした広場の奥に小さな祠がある。田中町にあることから田中の神明社と呼ばれている。
 境内の由緒書きを読むと、クニノトコタチ(国常立尊)を祀ると書いてある。本当か? と疑った。
 更に読み進むと、創建は不明なものの江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)の記録があるからそれ以前にあったことは確かで、オシャクジサン、オシャグジサンと呼ばれたとある。シャクジは石神から、シャグジは社宮司から来ていると考えられるとも。
 どうやらもともとは民間信仰のミシャクジ信仰から来ている神社で、神明社をあとから合祀しして名前が神明社になったという経緯のようだ。
 それにしても、どうして祭神がクニノトコタチなのかは分からない。

 国常立尊は日本神話における根源神の一柱で、永久に立ち続けるといった意味合いで名付けられているとされる神だ。
 国土を神格化した国常立神と天を神格化した天常立は対の神とも同一神ともされる。
 いずれにしても、民間信仰と結びつくような神ではなく、村の守り神としては位が高すぎて合わない。
 クニノトコタチを祀るとしたのは明治の神仏分離令以降だろうか。合祀した神明社で祀っていたのか、なんとなくクニノトコタチにしてしまったのか、そのあたりの事情は読めない。
 ひょっとすると複雑な経緯を辿って成立した神社なのか。アマテラスではなくクニノトコタチを祭神としたのにはそれなりの理由があったはずだ。
 ミシャクジ信仰については、石神社のページに少し書いた。

  田中神明社がある場所は小高い丘のようになっていることから、大高城の出丸だったとする説がある。
 大高城の歴史は古く、室町時代前期の南北朝時代(1336年–1392年)にはすでにあったとされる。
 戦国時代は水野氏が城主を務め、織田家の配下となっていた。しかし、織田信秀が死去すると今川家の手に落ちることになる。信長から離反した鳴海城主の山口教継の調略によるものとされる。ほどなくこの城は桶狭間の戦いの舞台になる。
 若き日の家康が今川の先鋒隊として大高城に兵糧を入れることに成功したというエピソードがよく知られている。
 ただ、直接の戦場にはならず、桶狭間で今川義元が討たれたという知らせを聞いた今川軍は引き揚げていき、その後、織田家の領地となった。
 ほどなく廃城となっていたところに江戸時代前期の1616年、尾張藩家老の志水家が館を建てて代々住んだ。
 初代の志水宗清は、尾張藩初代藩主・義直の生母・お亀の方の父親に当たる。大高陣屋1万石というから藩の中でも上の方の重臣だ。
 神明社の前身の神社に志水家が関係していたかどうかは分からない。もしここが大高城の出丸だったとしたら他の家の人間が勝手に神社を建てることができたとは思えないから、何らかの関係があった可能性はある。まったく無関係かもしれない。

  今も木々に囲まれてひっそりした空間になっているけど、昔は大きな松や樫の木があって、鬱蒼と茂る鎮守の森の様相を呈していたという。それらの多くは台風で倒れてしまったとのことで残っていない。
 城跡周辺は細い道が入り組んでいるにもかかわらず、住宅がびっしり建ち並んでいる。大きな車で入っていくと身動きが取れなくなりそうだ。
 毎年9月の例祭には田中町の人たちが集まって神事を行っているという。その後、子供相撲が奉納されるそうだ。
 昔は当たり前にあった子供会といったものがほぼ機能しなくなった現代において、神社の存在が町内を結びつける役割を担っている。そういう意味でいうと、社殿の大小や歴史の深さなどといったものはさほど重要な要素ではないのかもしれないと思えてくる。
 田中町も、この小さな神社がなかったら、今とは違う町になっていたんじゃないだろうか。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

入り組んだ道の奥の高台にひっそりある田中神明社

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