大高城址公園(地図)の南東の細い路地を入り、そこから更に入って小山を登っていった上の広場に神社はある。 田中町にあることから田中神明社と呼ばれている。 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、大高城跡の北側が早くから住宅地になっており、南側は手付かずの丘陵地帯だったことが分かる。その南のわずかな平地を水田にしたようだから、田中の地名はそこから来ているのではないかと思う。 この神明社は田中集落の氏神だったと考えられる。ただし、もともと神明社だったとは限らない。
祭神は天照大神(アマテラス)ではなく国常立尊(クニノトコタチ)となっている。 神明社でクニノトコタチを祀るのは、伊勢の神宮(web)外宮の度会神道(伊勢神道)から来ている場合が多い。 鎌倉時代後期に伊勢の外宮の神官だった度会氏(わたらいうじ)が唱えた神道説で、外宮の神である豊受大神(トヨウケ)を根源神であるクニノトコタチと同一視するものだった。神道五部書を基に、老荘思想、仏教説、陰陽五行説などを取り込みつつ江戸時代にかけて発展し、結果として神明社でクニノトコタチを祀るようになった神社が名古屋市内にも何社かある。 『愛知縣神社名鑑』は創建を不明とするも、境内の説明書きは江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)の記録があるからそれ以前にあったことは確かと書いている。 かつてはオシャクジサン、オシャグジサンと呼ばれたとも書く。 オシャクジ、ミシャクジというのは社宮司や石神などの字を当てる民間信仰だ。古くは諏訪地方の信仰を起源とする説があるものの、定かではない。病気の平癒祈願にシャモジを奉納したりする風習があった他、石神ということから道祖神の信仰などとも結びついた。 古い時代からオシャクジ信仰が始まっているとすれば、伊勢の外宮の度会神道が出発ではないかもしれない。出発は別で、途中から度会神道と結びついたとも考えられる。 ミシャクジ信仰については、南区の石神社のページに少し書いた。
田中神明社がある場所は小高い丘のようになっていることから、大高城の出丸だったとする説がある。 大高城の歴史は古く、南北朝時代(1336年–1392年)にはすでにあったとされる。 戦国時代は水野氏が城主を務め、織田家の配下となっていた。しかし、織田信秀が死去すると、信長から離反した鳴海城主の山口教継の調略によって今川家の手に落ちた。ほどなくこの城は桶狭間の戦いの舞台になる。 若き日の家康が今川の先鋒隊として大高城に兵糧を入れることに成功したというエピソードはよく知られている。 ただし、直接の戦場にはならず、桶狭間で今川義元が討たれたという知らせを聞いた今川軍は引き揚げていき、その後、織田家の領地となった。 廃城となっていた大高城に江戸時代前期の1616年、尾張藩家老の志水家が屋敷を構えて移り住んだ。 初代の志水宗清は、尾張藩初代藩主・義直の生母・お亀の方の父親に当たる。大高陣屋1万石というから藩の中でも上の方の重臣だ。 神明社の前身の神社に志水家が関係していたかどうかは分からない。もしここが大高城の出丸だったとしたら他の家の人間が勝手に神社を建てることができたとは思えないから、何らかの関係があった可能性はある。
今も木々に囲まれてひっそりした空間になっているけど、昔は大きな松や樫の木があって、鬱蒼と茂る鎮守の森の様相を呈していたという。それらの多くは台風で倒れてしまったとのことで残っていない。 例祭日は旧暦の8月21日というから、神社に関わる何か特別な日なのだろう。田中町の人たちが集まって神事を行っているとそうだ。子供相撲も奉納されるという。 昔は当たり前にあった子供会といったものがほぼ機能しなくなった現代において、神社の存在が町内を結びつける役割を担っている。そういう意味でいうと、社殿の大小や歴史の深さなどといったものはさほど重要な要素ではないのかもしれないと思えてくる。 田中町も、この小さな神社がなかったら、今とは違う町になっていたんじゃないだろうか。
作成日 2017.4.22(最終更新日 2019.3.30)
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