神明社(笈瀬町)

お伊勢さんと稲荷さんとカッパさん

笈瀬町神明社

読み方 しんめい-しゃ(おいせ-ちょう)
所在地 名古屋市中川区笈瀬町1丁目 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神 不明
 アクセス

・名鉄名古屋本線「山王駅」から徒歩約16分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 笈瀬町(おいせちょう)の笈瀬は、伊勢の神宮の「御伊勢」から来ているとされる。
 今の中村区から中川区にかけては伊勢の神宮領である一楊御厨(いちやなぎみくりや)と呼ばれる荘園があった。名古屋駅の裏一帯から中川区の下之一色あたりまでの広大な土地がそうだったという。
 かつて名古屋駅西を南北に流れる川があり、笈瀬川と呼ばれていた。西区名塚(地図)を水源とし、南へ下って中川と合流し、伊勢湾に注いでいた。
 笈瀬川にはカッパが棲むという伝承が椿神明社や中川区西日置の鹽竈神社に伝わっている。
 この神明社がある笈瀬町はそれらの名残を残す町名というわけだ。
 江戸時代は露橋村と呼ばれたところで、明治22年(1889年)に牧野村、米野村、平野村、日置村と合併して笈瀬村になった(その後、愛知町)。
『寛文村々覚書』(1670年頃成立)の露橋村の項を見ると、村には神明社と斎宮司の二社があると書かれている。
 しかし、この神明社はおそらく山王にある露橋神明社のことで、斎宮司は露橋神明社の境内に遷された西宮社のことと思われる。
 笈瀬町の神明社については『尾張志』にも出ていない。
 伊勢の神宮にゆかりの深い土地柄を考えると神明社を建てることはごく自然なことで、ある程度古い時代のものだと思うけど、それらの書に出ていないということはごく小さな社だったということだろうか。

 境内には笈瀬稲荷があり、説明書きにはこんなことが書かれている。
 延享三年(1746年)に尾張藩主の徳川家が寄進して創立した。
 1746年ということは、7代藩主宗春の後を受けた8代藩主宗勝の時代だ。
 その後、神社は荒廃して中川区白川町の加藤光春という人が発起人となって明治42年に社殿を改築した。
 京都の伏見稲荷大社から再勧請して、中区の伊勢山神明社の境内に遷座させたらしい。
 その後、あれやこれやあって、昭和15年に今の笈瀬町神明社の境内に遷座して、笈瀬稲荷と名を改めたとのことだ。

 境内社の稲荷社の説明がこんなに詳しいのに神明社自体の説明はないところをみると、くわしい話は伝わっていないとみるべきか。
 愛知県神社庁にも登録していない。

 神社入り口に「むさんどはし」と刻まれた石柱があり、本社横には無三殿と彫られた石柱と小さな社がある。
 無三殿というのは、尾張藩士だった松平図書康久のことをいう。
 現在、堀川に架かる日置橋の近くに松平康久が住む屋敷があった。松平康久の法名が無三だったことから無三殿屋敷と呼ばれ、笈瀬川の水を堀川に流す杁を無三殿杁といった。
 最初の方で書いたように、その近くにカッパが棲んでいるという話があった。誰が言い出したのか、橋の上から尻を出して見せるとカッパが痔を治してくれるという噂が広まった。後にそのカッパを神様として祀ることになり、無三殿大神と称されるようになる。
 無三殿というのはつまり、カッパの神様というわけだ。
 鹽竈神社にある無三殿も、もともとは川辺にあったものを昭和になって移したものだ。
「むさんどはし」と刻まれた石柱は、無三殿橋の一部(親柱)ではないかと思う。その橋がどこに架かっていたものだったのかはよく分からない。

 無三殿の社や無三殿橋の一部、笈瀬稲荷など、あちこちから寄せ集めてきた感が強いから、ひょっとすると神明社自体も他の場所から移されてきたものかもしれない。そうだとすれば、『尾張志』の露橋村のところで紹介されていない説明がつく。
 狭い境内にいくつかの要素がぎゅっと詰まった魅力的な神社だと思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

笈瀬町の神明社は新しいのか古いのか

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