藤森神明社

ここが和尓良神社だったらいいのだけど

藤森神明社

読み方 ふじもり-しんめいしゃ
所在地 名古屋市名東区本郷1-22 地図
創建年 不明
社格等 村社・十等級
祭神

豊受姫神(とようけひめのかみ)
菊理姫神(くくりひめのかみ)

アクセス

・地下鉄東山線「本郷駅」から徒歩約10分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

『延喜式神名帳』にある「山田郡和尓良神社」の候補のうちのひとつ。
 それ以外の論社は以下の通り。
 和爾良神社 春日井市上条町
 朝宮神社 春日井市朝宮町
 両社宮神社 春日井市宮町
 和爾良神社 名古屋市名東区猪高町
 景行天皇社 長久手市宮脇

 庄内川を越えて春日井市まで山田郡域だったとすれば、和爾良神社や朝宮神社などの可能性が高そうではあるけど、そうでないなら不明ということになる。
 名東区猪高町の和爾良神社は創建のいきさつからして候補から外れるし、長久手の景行天皇社は歴史はありそうだけど和尓良という名称との関連が弱い。
 ここで紹介する藤森神明社は個人的な感触としては可能性が低いと思っている。

 話は急に変わるけど、名東区は古墳時代から鎌倉時代初期にかけて一大窯業生産地だった場所だ。東山古窯群と名付けられたたくさんの古窯が発掘されている。
 地区でいうと、前山、牧の原、梅森坂、高針、極楽、貴船、亀の井、猪高、北一社、平和が丘、社台、猪子石、藤が丘などで、名東区のほぼ全域といっていい場所に窯が築かれていた。
 また、大量の鏃(やじり)や石斧などの石器類が見つかっていることから、縄文・弥生時代から人が暮らしていた土地だったことが分かっている。
 古墳時代中期の5世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島から渡って来た人たちが須恵器などの土器やその製造技術を持ち込み、まず大阪に拠点が生まれ、その後、尾張のこのあたりに伝わってきたとされる。
 土器そのものは数千年前から焼かれていたのだけど、それは土を浅く掘ってその上に木を組んで焼いたもので温度が上がらなかったため高度な焼き物を作ることができなかった。このとき持ち込まれたのは、窯で焼く技術と知識で、温度を1000度ほどに上げることができるようになったことで固い土器が作れるようになった。
 その後、窯の中心地が東山から猿投方面に移ったことで猿投窯とも呼ばれる。東山と猿投エリアで1000基以上の窯が見つかっており、全国有数の一大陶器生産拠点だったとされている。
 5世紀から6世紀にかけてというと、尾張でたくさんの古墳が造られた時期と重なる。志段味古墳群や熱田の大型前方後円墳などに使われた土器もこの地で生産されたと考えられる。
 それだけの数の窯があったということは、都や全国にも運ばれた可能性が高い。陶器といえば瀬戸物の瀬戸がよく知られているけど、もっと早い時期に猿投窯があったことはあまり知られていない。
 突然なんでこんな話をしたかというと、古墳時代中期以降にそれだけ多くの窯が築かれていたということは、大勢の陶工やその家族がこの地で暮らしていたということで、古い時代に創建された神社のひとつやふたつあってもおかしくないということが言いたかったのだ。むしろ、それがない方が不自然だ。
 しかし、実際はない。何故ないのか? それが分からない。

 和爾良(和尓良)という神社の名称からして和珥氏(わにうじ)との関連を考えないわけにはいかない。
 和邇、丸部とも書き、孝昭天皇の皇子・天足彦国押入命(あまたらしひこくにおしのみこと)を祖とするとされる。
 奈良盆地や京都盆地あたりに拠点を持っていた豪族で、5世紀から6世紀にかけて天皇に多数の后を送り込んで勢力を伸ばした。
 和珥氏はもともと鍛冶集団で、のちに祭祀土器を司っていたという説がある。それが本当であれば、5世紀から6世紀にかけての土器の生産拠点だった尾張に一族を派遣して土器造りを行っていた可能性がある。その人々が氏神を祀る和尓良神社を建てるのはごく自然なことに思える。それが藤森神明社の前身だったという可能性も捨てきれない。
 根拠のひとつとして、かつてはもう少し西の低地に鎮座していて、その場所を宇称良、和尓良などと呼んでいたというのがある。

  祭神に関してやや混乱が見られる。
『愛知縣神社名鑑』では豊受姫神、菊理姫神となっているのに対して、神社の由緒では天照皇大御神と豊受大御神になっている。
 アマテラスが最初からなのか途中からなのかは分からないのだけど、いずれもトヨウケヒメが主祭神となっている点は無視できない。伊勢の神宮外宮の祭神で、一般的に穀物や食物の神とされている。土器や窯といった要素はない。
 由緒では相殿に国常立尊(クニノトコタチ)、菊理媛之命(ククリヒメ)、木花開耶姫之命(コノハナサクヤヒメ)、大山祇神(オオヤマツミ)、小碓之命(オウス)、 迦具土之命(カグツチ)を祀るとしている。
 クニノトコタチがどこから来ているのかは分からないけど、ククリヒメは白山の神で、コノハナサクヤヒメは富士山(浅間社)の神だ。オオヤマツミは山の神で、ヤマトタケルをあえてオウスとした意図は何なのか。火の神カグツチでようやく陶器関連を思わせる神が出てくる。
 江戸時代に書かれた『尾張志』には神明社・白山社相殿として出てくる。祭神を国常立尊、菊理姫命としている。
 もっとも古い棟札は室町時代の1347年のもので、江戸期にかけて、天照坐大御神社、猿投大明神社、白山宮、富士浅間社、山神社、天道社などを修理造営した記録が残る。
 最初の主祭神が何だったのかはなんとも言えない。 

 この地区にあれだけの窯を築いたにもかかわらず、古墳は見つかっていない。それはつまり、有力豪族が住んで支配していた土地ではなかったことを意味する。
 窯の中心が東山から猿投、そして瀬戸、美濃方面へと移っていくことを考えると、陶工集団は定住者ではなく陶器を作るための土を求めて移動していく流民的な集団だったのだろうか。だとすれば、この地に神社を建てて定住するつもりがなかったのかもしれないし、あるいは移動するときに神社も持っていったのかもしれない。
 名東区は名古屋の中でも新興住宅地と思われているエリアで、歴史の郷といった イメージはない。そういう部分での保護活動などもあまり行われてこなかったため、住民でも知らない人が多いんじゃないだろうか。
 そんな街だからこそ、ひとつくらい古い神社があってもいいんじゃないかと個人的には思う。
 藤森神明社が和珥氏ゆかりの和尓良神社だとすれば、それは嬉しいことだ。 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

名東区に二つの神明社あり

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