『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社のひとつとされている。 この神社には候補が7社あって、どこも決め手に欠ける。古い時代にすでに失われたとも考えられている。 他の論社の6社は、和爾良神社(名東区猪高町)、和爾良神社(春日井市上条町)、朝宮神社(春日井市朝宮町)、両社宮神社(春日井市宮町)、天神社(春日井市牛山町)、景行天皇社(長久手市長湫宮脇)となっている。 山田郡と春日部郡の郡境問題があるので春日井市の神社は違う可能性が高い。猪高町の和爾良神社も可能性は低そうとなると、この藤森の神明社か長久手の景行天皇社かということになるのだけど、話はそれほど単純でもない。
名東区内では縄文時代の石器や土器などが見つかっていることから、古くから人が暮らしていたと考えられている。ただし、集落跡のようなものは見つかっておらず、居住者はごく小規模だったと見てよさそうだ。 古墳としては小型円墳が数基見つかっているくらいで、中型以上のものは知られていない。かつては小さな古墳がたくさんあったという話もあるのだけど、都市開発の中ですべて消滅してしまった。 特筆すべきは、たくさんの古窯跡が見つかっていることだ。 名古屋市内では千種区東山から名東区の全域、瀬戸市南部、豊田市西部、大府市から刈谷市にかけての北部20キロ四方で、1000基を超える窯跡が見つかった。 名東区内では前山、牧の原、梅森坂、高針、極楽、貴船、亀の井、猪高、北一社、平和が丘、社台、猪子石、藤が丘などで窯跡が発見された。 猿投山山麓ということで猿投窯(さなげよう)、猿投古窯群などと呼ばれている。 時代は古墳時代後期から鎌倉時代初期にかけてで、朝鮮から持ち込まれた技術を用いて須恵器などの高級土器を焼いていた。熱田の断夫山古墳(6世紀前半)の墳丘に並べられた須恵質の埴輪は東山111号窯で焼かれたことが分かっており、これが猿投古窯の起源と考えられている。 この地で焼かれた土器は都に運ばれたり、寺社や豪族に納められた。 土器そのものは1万年以上前の縄文時代から焼かれていた。しかし、それは土を浅く掘ってその上に木組みをして焼いたもので温度が低かったことから割れやすいという欠点があった。 朝鮮からもたらされた技術は窯を作ってその中で焼くというもので、温度が1000度を超えたことから固くて丈夫な土器が作れるようになった。 そのための窯作りにこの地が選ばれたのは、良質の土があって、燃料となる木が豊富で(特に松)、斜面がたくさんあったためだ。 水をどうしていたのかはよく分からない。近くの川といえば香流川と植田川くらいしかなく、すべての窯から近いわけではない。井戸を掘れば水が出ていたのか、湧き水でまかなっていたのか。 鎌倉時代初期以降、この地で土器が焼かれなくなったのは、土と木が不足するようになったからではないかと考えられている。陶工集団たちは東の瀬戸や美濃などに移っていった。
この地で土器を焼いていた人たちというのは、指導者的な朝鮮人の集団だったかもしれないし、国内の労働者だったかもしれない。焼かれた土器が当初は高級品に限られるということからすると、民より官の色が強いようにも思う。 彼らは神を祀ったかどうか。神社を建てるに到ったかどうか。 先ほども書いたようにこのあたりに大型の古墳は築造されていない。式内社の論社はあるものの、明らかな古社というものもなく、奈良、平安時代の古寺もない。その事実をどう捉えるべきなのか。
神明社の現住所は本郷1丁目なのだけど、江戸時代までここは藤森村といっていた。藤森の神明社といっているのはそのためだ。藤森は本郷の西隣に町名として残っている。
江戸期の藤森村の項を見ると、いろいろ分からないことがある。
江戸時代前期の1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』にはこうある。 「社三ヶ所 内 猿投大明神 富士権現 山之神 新居村祢宜 与太夫持分」 この時点では神明社はなかったようで、猿投大明神と富士権現と山神の三社があるといっている(猿投社、富士社、山神社は、明治以降に神明社に合祀された)。 この三社が新居村の祢宜の持分になっている理由も謎だ。新居村というのは今の尾張旭市の新居町で、直線距離で5キロも離れている。藤森村には祢宜がいなかったのか。
江戸時代後期の1844年に完成した『尾張志』では状況がかなり変わっている。 「神明白山相殿ノ社 藤森村にあり國常立尊菊理媛ノ命を祀るといへり白山社は永享元年創建のよし府志にいひて社明相殿のよし見えす扨は舊此地白山ノ神のみなりしを府志撰述の後今のことく相殿としたる成へし社説に上古は今の社地より二十間はかり西の方なる低地にありしを後此所にうつしし由いへり其年月はしられすとさて其舊址に古松枯朽てたてり其處を オネラ 又ワネラ 或はウニラ 又ワニラなとといひ其處より小坂を下りて南の方にいにしへの御手洗といひ傳へたり處に杉の枯木残りたるあたりの地田字を杉前と呼よしも社説にいへり境内の末社に猿投ノ社あり」 1752年完成の『張州府志』には白山社の創建は永享元年(1429年)で、神明社との相殿になっていないことからすると、神明社との相殿になったのは『張州府志』が書かれた1752年以降のことではないかといっている。 境内末社に猿投社がありとあるので、『寛文村々覚書』の頃は独立していた猿投明神が、ある時期に神明社白山社相殿に移されたと考えていいだろうか。もともとはこの猿投明神が藤森村の氏神だったともいう。 神明社白山社相殿の旧地は現在地の西二十間(約36メートル)の低地で、いつのことか不明ながら今の場所に社地を移し、旧地をワニラとウニラとか呼んでおり、そこには松や杉の枯れ木があり、御手洗と呼ばれる場所もあって神社の名残も感じられることから旧社地に和爾良神社があったのではないかというのが『尾張志』のいわんとしているところだ。 本文には続きがあって、中尾義稻が藤森村を訪ねていって神社について社人や里人に聞き込みして調査をした話が書かれている。 まとめると、このときの社人は新居村の谷口久米足という人で、山田郡和爾良神社は今の藤森村の神明社白山社相殿の西にあって、そこには枯れた松や杉などもあって、ワニラ、ウニラ、オニラなどと呼んでいる。そこが藤森村の氏神の旧地というのであれば、式内の和爾良神社はうちの神社のことではないか云々といった内容になっている。 付け加えて、杉前という地の西にある地蔵堂に二体の石像があって、村人は夫婦地蔵と呼んでいるのだけど、ひょっとするとこれは和爾良神社の國常立命と菊理姫命の像だったのではないかという推測をしている。 ただ、古い神社だとすれば和爾良は姓から来ているはずで地名からということではないのではないかとする。 更に神明社で國常立を祀るというのは中世以降のことだとも書いている。 神明社白山社相殿の他に、富士ノ社(氏神ノ社より北の方にあり)、山ノ神ノ社(氏神社より南の方にあり)、天道ノ社(氏神社より西の方にあり)、山ノ神ノ社(氏神社より辰巳の方にあり)があるとしている。
『尾張徇行記』(1822年)は『寛文村々覚書』と『張州府志』に書かれたことを紹介しつつ、こんなふうに書いている。 「新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、日山神明相殿、猿投大明神祠境内三反前々除、冨士境内一反二畝、天道境内二十歩、山神二祠、一ツハ境内五畝、一ツハ境内十歩、何レモ年貢地」 日山は白山の間違い(誤植かも)だろう。 新居村祢宜の谷口という人物が何か鍵を握っていそうでもある。
『愛知縣神社名鑑』は創建不明として、『尾張志』の内容を要約するのみでそれ以上のことは書いていない。 祭神を菊理姫命と豊受姫神としているけど、神社の由緒書きでは、天照大御神と豊受大神を祀るとする。 白山社との相殿社ということもやめてしまったようで、社名に白山社は入っていない。 江戸時代に神明社で祀るとしていた國常立命と白山社祭神の菊理姫命はは相殿に移されている。 その他、相殿神として木花開耶姫之命(コノハナサクヤヒメ)、大山祇神(オオヤマツミ)、小碓之命(オウス)、 迦具土之命(カグツチ)を祀るとしている。藤森村にあった冨士社、山神社がこの神明社に移されたことはこのことから分かる。天道社はどうなってしまったのか。これがアマテラスにつながったかもしれない。 小碓之命はどこから来ているのかは不明だ。小碓之命はヤマトタケル(日本武尊)の元名なのだけど、もしかすると猿投神社の祭神の大碓命と間違えただろうか。大碓命は小碓命の双子の兄で、父親の景行天皇に東征を命じられて逃げたため美濃国に封じられたと『日本書紀』は書いている。神社の由緒では、猿投山の山中で毒蛇に噛まれて死んだため、猿投山に葬られたとしている。 藤森村の猿投明神が祀られたのは前々除とあることから江戸時代以前には違いないのだけど、いつ誰が祀ったのかは見当もつかない。名古屋ではかなり珍しい。 境内社として英霊社が建てられている。
和爾良神社が古代豪族の和珥氏(わにうじ)から来ている可能性については和爾良神社のページに書いた。可能性としてはなくはないけど、どうだろう。 白山社の創建が1429年というのが本当であれば、戦国時代の前期に当たる。この時代の藤森あたりがどんな状況だったのかは不明ながら、ここを拠点にしていた武将が祀った可能性は考えられる。白山権現は武将にも人気があった。 一番古い棟札は1347年のものというから、白山社以前に古い神社があったということだ。 旧地にあったとされる神社が何神社でいつ建てられたのかは分からない。式内の和爾良神社だったかどうかは何とも言えない。完全には否定できないけど信じるだけの根拠もない。旧地のあたりは道路と住宅地になってしまって往事の面影はまったく残っていない。
名東区は名古屋の中でも新興住宅地のイメージが強い地区で、歴史の郷といった印象はない。そういう部分での保護活動などもあまり行われてこなかったため、住民でも知らない人が多いんじゃないだろうか。 しかし、ここは知られざる歴史を秘めた土地だ。奈良時代、少し高いところから見下ろせば、そこかしこの窯から煙が立ち上る風景が見られたはずだ。古代のこの場所は、職人たちが働き、その家族が暮らす村だった。 そんな土地にひとつくらい古い神社が残っていてもいいじゃないかと思う。この神明社がそうであったら嬉しいことだ。
作成日 2017.4.6(最終更新日 2019.12.31)
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