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影向間社

草薙剣の仮置き所ならびに熱田大神の避難所

影向間社

読み方 ようごのま-しゃ
所在地 名古屋市熱田区白鳥2丁目11 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 熱田大神(あつたのおおかみ)
アクセス 地下鉄名城線「神宮西駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 熱田神宮web)の西、国道19号線を渡って細い道を入っていったマンションの駐車場の一角に小さな社がある。
 社名も何も書かれていないので通りかかる人もここがどんな社か知らない人が多いと思う。マンションの住人さえも知らないんじゃないだろうか。
 ここは熱田神宮、特に草薙剣とのゆかりが深い社だ。簡単に説明すると、盗まれて戻ってきた草薙剣を一時預かっていた尾張氏(田島氏)の邸宅の部屋にまつわる社ということになる。
 ただ、その説明だけでピンと来るのは一部の人だけなので、もう少し詳しい解説が必要となる。

 草薙剣の物語の前半部分に関しては八剣宮八劔社(鳥栖)などのページで書いたのでここでは省略するとして、熱田社の御神体として祀られていた草薙剣が盗まれてしまったところから始めたい。
 飛鳥時代の天智天皇7年(668年)、沙門(修行僧)の道行が草薙剣を盗み出して新羅に逃亡を試みるも嵐に遭って陸に戻され捕まったと『日本書紀』(720年)は書く。
 道行の正体や盗んだ目的などについては説明はなく、道行がその後どうなったかも書かれていない。
 鎌倉時代初期に成立したとされる『尾張国熱田太神宮縁記』によると、道行が海を渡ろうとしたところ伊勢で草薙剣が自ら戻ってきて、もう一度道行が盗み直して摂津国から船を出したところ嵐に遭って難波に漂着したため、あきらめて自首して死罪になったとする。
 草薙剣盗難事件から18年後の朱鳥元年(686年)、天武天皇が病気になって原因を占ったところ、草薙剣が祟っているせいだということになり、即日、熱田社に送り置いたと『日本書紀』は書いている。
 何故か熱田社の御神体だった草薙剣は取り返された後、18年間もどこかに置かれていたということになる。文脈からすると宮中とも思えるのだけど、盗まれた686年は天智天皇の時代で、それがどうして天武天皇に祟ったのかもよく分からない。皇太子(皇太弟)時代の天武(大海人皇子)が盗ませたということを暗に語っているとも取れる。
”送り返した”ではなく、”送り置いた”と書いている点にも注意が必要だ。
 現在、熱田神宮の別宮となっている八剣宮は、和銅元年(708年)に元明天皇が命じて新剣を作らせ、それを祀るために建てたとしている。
 鳥栖の八劔社の伝承では、盗まれたのは686年ではなく708年となっている。
 もともと熱田社と八剣社は別々の神社だったのだけど、どうして686年に草薙剣が戻ったとしながら708年に別の剣を造ってそれを祀る社を建てる必要があったのか。
 草薙剣盗難事件には明らかに裏がある。天皇の皇位継承に必要な三種の神器のひとつでありながらどうして地方の尾張国の神社で祀られているのか。逆に言えば、どうして尾張国の神社の御神体の剣が天皇の三種の神器になり得るのか。何故、その剣が天武天皇に祟ったのか。どうしてそのことを『日本書紀』はわざわざ書いたのか。
 686年というのはひとつのターニングポイントになる年で、天武天皇の死去から持統天皇へと時代が移ったときだった(持統天皇即位は690年)。このときすでに天武天皇は病床にあったとされるので、草薙剣を熱田社に送ったのは持統天皇だったかもしれない。
『日本書紀』の編さんが行われている時期で、アマテラスを皇室の神として現在に続く神話と神社の体系を整えたのがこの時期だったという説がある。伊勢の神宮(web)を皇祖神を祀る神社として現在のように整えたのは天武・持統天皇ともされる(それ以前の皇室の神社は石上神宮だったと私は考えている)。
 この年、『日本書紀』が語る日本武尊の物語を裏打ちするため、尾張に10の社が建てられたとされる。
 白鳥神社、水向神社(みかじんじゃ)、松姤神社(まつご)、日長神社(ひなが)、狗神神社(いぬがみ)、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社で、それぞれヤマトタケルゆかりの地とされる場所に建てられている。
『日本書紀』が仕立て上げた壮大な物語は、単に歴史書だけのことではなく、神社や祭神、歴史そのものに及んでいる。
 熱田社の元宮ともいえる氷上姉御神社も、690年に持統天皇の命で火上山から現在の場所に移されている。
 持統上皇は死去することになる年に三河を行幸(御幸)して尾張にも立ち寄り、熱田社と氷上姉御神社に多大な寄進をしたという話がある。公式な記録にはなく、神社側に伝わっているだけなのだけど、これも何か関係がありそうだ。

 686年に草薙剣は熱田に送られてきたという話を全面的に信用していいかどうかは分からない。ただ、686年に何かがあったのはたぶん間違いない。
 単純にいえば、地方豪族の雄だった尾張氏が天皇を中心とする朝廷の傘下に入ったということなのだろうけど、それほど簡単な話ではない。
 686年当時の熱田社がどうだったかというと、大がかりな造営工事が行われていたようで、686年の12月に造営が完成したとされる。
 草薙剣が送られてきたのが6月10日、天武天皇の崩御が9月9日(いずれも『日本書紀』)だから、草薙剣が送られてきたから造営を行ったわけではないだろう。半年やそこらで造営工事ができるはずもない。少なくとも数年前から行われたはずで、もしかすると草薙剣が盗まれたとされる668年から始まったかもしれない。
 あるいは、草薙剣を初めて祀ったのが686年で、それ以前の熱田社は別の神を祀る尾張氏の氏神社だった可能性がある。
 このときの造営がちょっとした修繕程度ではなかったことを示すように、草薙剣を祀る場所がないということで、草薙剣は一時、祝(はふり)の尾張氏(田島氏)の邸宅に仮に置かれることになった。
 これも通常ではなかなか考えられないことだ。本社を造営する際に権殿などを建てて仮遷宮させておくということはよくあるけど、社家の邸でご神体を祀るということはまず考えられない。
 しかもそれが三種の神器のひとつとなればなおさらだ。
 そのへんはどんな事情があったのか推測するのも難しいのだけど、その田島邸に草薙剣を置いておく部屋を影向間と呼んだ。
 影向(ようごう)というのは、神仏が仮の姿をとって現れることをいう。
 権現(ごんげん)は神が仏などの姿を借りて現れることをいうのに対して、影向はもっと広い意味で神仏が現れることをいい、姿を見せないこともある。
 この場合、熱田大神である草薙剣を仮に安置する部屋ということで影向間(ようごうのま)と名付けたのだろう。それが後に社名としてそのまま使われることになった。
 影向は通常「ようごう」と読むのだけど、熱田神宮のサイトでは影向間社に「ようごのましゃ」とフリガナを振っているから、「ようご」と読ませるようだ。

  熱田社の造営が完了すると草薙剣は本社に戻された。しかし、影向間社はそのままとして、代々邸宅内で祀られていたようだ。
 明治になって現在の白鳥2丁目に移された。
 マンションの一角にあると書いたけど、以前はこのマンションの敷地が境内で、今ある小さな社が隅っこにぽつんと置かれるような格好だった。
 マンション建設中に熱田神宮境内に遷されたという話があるのだけど、今もうこうして元の場所にある。
 熱田神宮境内の車祓いをしているところの入り口を入ってすぐ北にも影向間社があるから、工事中に移した場所と元地のふたつの社で祀ることになったのだろうか。もしくは、もともと境内と境外の両方あったのか。

 熱田神宮には酔笑人神事(えようどしんじ)という変わった神事が行われている。
 5月4日の午後7時。白装束の16人の神職がおっほっほっほ、わっはっははと笑うというものだ。
 祝詞もあげず、ただ神職たちが暗がりで笑うだけというのはちょっと普通じゃない。
 これは草薙剣が戻ってきたことを喜んだ故事にちなむものというけど、ここにも何か裏がありそうだ。
 その神事が最初に行われるのが影向間社で、続いて神楽殿前、別宮前、清雪門前でも同じことが行われる。
 清雪門は道行が草薙剣を盗んだときに通ったとされる門で、以降不吉だからということで開かずの門とされている。その清雪門があったのは熱田本社ではなく八剣社だったという話があり、そのことも言い出すと話がややこしくなる。

『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は影向間社についてこう書いている。
「影向間社は鎮皇門外の政所内にあり、祭神は大宮の神と同體にして、大宮危急の時の立退所とす」
 まさか、マンションの一角にあるちっぽけな社が熱田大神の危急のときの避難所だと思っている人はほとんどいまい。そんな重要な社がこんな扱いでいいのだろうかと思ったりもする。
 熱田神宮の境内にも影向間社はあるから、外の社はもういらないだろうとならなかったことはよかったと思う。影向間がこのあたりにあったということが重要で、それをなかったことのようにしてはいけないということだっただろうか。
 この先も廃社の危機がないわけではないけど、しっかり残していってほしいと思う。
 田島氏は今どこで何を思っているだろう。

 

【追記】2021.5.24

 実はこのマンション、熱田神宮の神職(宮司さん?)の宿舎として使われているそうで、関係者が祀っていると教えていただいた。
 それなら取り壊される心配もないので安心だ。

 

作成日 2017.8.15(最終更新日 2021.5.24)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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