1610年に名古屋城(web/地図)が築城される以前から名古屋城エリアにあった神社のひとつ。那古野村古地図を見ると、当時から場所は変わってないようだ。 古地図には若宮、天王、八王子、天神、山神、宗像社、荒神、深島神社が描かれている。若宮は今の若宮八幡社(栄)で、天王は今の那古野神社だ。八王子が清水の八王子神社春日神社で、荒神はのちに深島神社に移された。天神と山神についてはどうなったかは把握できていない。 村江図に描かれている深島神社が今の深島神社のことというのは間違いなさそうではあるのだけど、いつ誰がこの場所にこの神社を創建したのかがはっきりしない。祭神についてもいろいろ混乱があるようで確かなことは分からない。 熱田台地(那古野台地)の北の台地の下なので、古くは入り海だったところだ。名古屋城築城当時も湿地帯だったから、それほど古い時代のものではないと思われる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではないが、『尾張志』に応永五年(1398)三月、改築と記する。慶長年間(1598-1614)名古屋城の鬼門の守護神として尾張藩祖源敬公あつく信仰する。明治5年据置公許となり、明治18年5月13日村社に列格した。昭和14年9月14日指定村社となる」
「『尾張志』に応永五年(1398)3月、改築と記する」という部分は間違いで、これは宗形社について書かれたものだ。 名古屋城の鬼門(北東)に当たるのはその通りで、初代藩主の徳川義直が崇敬したというのは本当かもしれない。 ただ、義直自身が宗像から勧請して三女神を祀る社を三社建てたという話があり、それも混乱を来す要因となっている。それらの社が現在どうなったのか分からなくなってしまっている。
1964年に北区役所が発行した『北区誌』によると、室町時代中期の1450年に九州福岡の宗像神社(宗像大社/web)から田心姫命(タゴリヒメ)を勧請して創建されたという。 明治後期から大正にかけて編さんされた『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、祭神を湍津姫命(タギツヒメ)としている。 江戸時代後期の1844年に完成した『尾張志』では市杵島姫(イチキシマヒメ)ではないかとする。 『尾張志』はこう書く。 「深島ノ社(シムトウ) 柳原深島(フケシマ)にあり此社號をシムタウと云は深島を字音によめる也柳原も深島も此處の地名也かの宗形三座の其一神にて湍津姫命を祀ると社説にいへりさて此地名により按するに深島(フケシマ)というはかの本所ノ宗形の奥津宮に當るへく武島(タケシマ)といふは湍津姫ノ命の御名より出たる地名なる事紛るへくもあらねは實は武島ノ社は湍津姫ノ命深嶋ノ社は市杵島姫ノ命を祭れるならむを此社説は傳へ誤りたるものなるへし(今の社説に武島社を市杵島姫とし深島社を湍津姫命としたるはこことかしこと混したるものならむ)かくて宗形社はかの筑前なる本所の中津宮に當り深島ノ社は奥津宮にあ□武島社は邊津宮□合(カナヘ)り又その祭神の混したらむとおほしきを改て武嶋社を湍津姫とし深島ノ社を市杵島姫とするとき宗形ノ社は舊説のまま田心姫命にて是則日本紀に見えたる古傳説によく符号せり今一己の臆説を記して更に識者の考訂をまつ」
変体仮名(へんたいがな)が一部分からないのと、江戸時代後期における深島社、宗形社、武嶋社の状況が不明というのがあるのだけど、武嶋社で湍津姫、深島社で市杵島姫、宗形社で田心姫を祀るとすればうまく収まると思うのだけどどうだろう、といった内容だ。つまりは、深島社では市杵島姫を祀るとするのが『尾張志』編者の考えということだ。『尾張志』は尾張藩の藩誌なので、尾張藩の立場といってもいいかもしれない。 本家の宗像大社でもどの神をどこで祀るかいろいろあったようだけど、現状は本土にある辺津宮(へつぐう)で市杵島姫を、筑前大島の中津宮(なかつぐう)で湍津姫を、沖島の沖津宮(おきつぐう)で田心姫神を祀るということで落ち着いている。 辺津、大島、沖島を結ぶとその先には対馬があり、これらの島は古くから朝鮮半島や中国大陸との交易の中継点だった。それゆえ、海上交通安全の神として宗形三女神を祀ったと考えられる。 沖島では縄文時代以降の石器や土器が見つかっており、古くから人が暮らしていたことが分かっている。4世紀から9世紀にかけての古代祭祀の遺構が段階的に残っており、古代の祭祀の変化が見てとれる。見つかった約8万点の遺物は一括して国宝に指定された。 その後、2017年に『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』としてユネスコの世界遺産に登録された。 現在でも女人禁制であり、宗像大社の神職が全裸で海に入って禊ぎをして交代制で沖島の奥津宮を守っている。
深島社で三女神のうちのどの神を祀っているかはともかく、この地に海の女神をいつ誰が祀ったのかということがやはり問題となる。 このあたりが入り海だった遠い昔に宗像あたりからやってきた人たちが故郷の神を祀ったという可能性もなくはないだろうけど、さすがにそれは低そうだ。 古くは弁才天と呼ばれていたというから、もしかすると宗像三女神は後付けで、最初は弁天を祀ったが始まりかもしれない。 柳原という地名は、かつてこのあたりが湿地帯だった頃、柳の木がたくさんあったことからそう呼ばれるようになった。 深島も古い地名なのだけど、そういう名前の島が実際にあったという話もある。だとすれば、湿地の中の島に弁天を祀った可能性は充分考えられる。 『北区誌』がいうところの室町時代中期の1450年に福岡の宗像神社から田心姫命を勧請して創建したというのは、どの程度根拠があるものなのか。
境内社に稲荷社、牛頭天王社、荒神社、石神社がある。 稲荷社と牛頭天王社は『尾張志』に書かれている。 「此やしろもとは別所にありしを勝綱主(法號得性院と申て源載公の御末子也)の御さたによりて此處にうつせり」 源載公というのは尾張徳川家八代藩主の宗勝のことで、その第六子の勝綱主(松平藤馬)が江戸から勧請して邸宅内に建てたものだ。稲荷社が1756年、牛頭天王社が1761年という。 邸宅はこの深島社の近くにあり、大変立派な屋敷で柳原御殿と呼ばれていた。 『尾張志』では松平藤馬の沙汰によりと書いているけど、実際は松平藤馬の死後に松平掃頭守が深島社に移したようだ。 荒神社と石神社は名古屋城内にあったもので、1694年に藩主の命で柳原の神祗祭場殿のそばに移し、その後深島社に合祀された。 神祗祭場殿は尾張藩二代藩主の光友が吉見宮内太輔源幸勝に命じて建てさせた祭場で、家と国の安泰を祈祷し、危急の時はここで祈るためのものだった。
江戸時代、このあたりは深島社と小さな集落があるくらいでまわりは田畑しかないような場所だった。そのため、神社の境内は2000坪もあったという。 その後、明治になると西隣に軍の練兵場ができて、境内は10分の1にまで縮小してしまった。そのあたりは今昔マップの明治中頃(1888-1898年)に描かれている。 第二次大戦の空襲で社殿は焼失。現在の建物は昭和27年に建てられたものだ。
深島神社の90メートルほど西に宗像神社(城北神社 / 地図)があり(2016年に廃社)、その宗像神社と深島神社の関係はどうなのかということもひとつ鍵を握っている。 西区浄心にも宗像神社があり、武嶋神社(瀧島ノ社)は江戸時代にはすでに巾下の冨士浅間神社の境内に移されていた。それらの神社とあわせて考える必要がありそうだ。
作成日 2018.4.4(最終更新日 2019.9.17)
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