名古屋市内に独立した知立神社(web)系の神社は二社しかない。そのうちの一社が中川区松年町の知立社(地図)で、もう一社がここ港区魁町の池鯉鮒社だ。 松年町の知立社は熱田新田の十一番割の氏神だった八剱社の飛び地末社だったのが独立したもので、魁町の池鯉鮒社は熱田前新田に創建された。どちらも江戸時代後期ということで比較的新しい神社だ。 総本社である知立市の知立神社は三河国二宮で『延喜式』神名帳(927年)にも載る古社だ。 ただ、創建のいきさつや祭神についてはよく分からない部分が多い。 ヤマトタケルが東征の途中に知立の地で戦勝祈願をして帰りに鵜茅草葺不合命、彦火火出見尊(鵜茅草葺不合命の父)、玉依比売命(鵜茅草葺不合命の母)、神日本磐余彦尊(鵜茅草葺不合命の子で初代神武天皇) を祭ったのが始まりと社伝はいう。 一方で地主神を祀ったのが始まりという説もある。 平安時代前期の850年には神宮寺が建立され、早くから神仏習合して知立大明神(池鯉鮒大明神)とも呼ばれた。 知立の地名は古く、7世紀後半の木簡に「知利布」とある他、知立、智立などとも表記され、江戸時代は池鯉鮒がよく使われた。知立にあった東海道の宿場も池鯉鮒宿だった。池に鯉と鮒がたくさんいたからという話もあるけど、江戸時代の人間のシャレかもしれない。 知立神社は東海道三社のうちの一社ともされていたくらいだから、尾張名古屋の人間もよく知っていたに違いない(あとの二社は熱田社webと三嶋大社web)。 そのわりにはあまり人気がなかったのか別の事情があったのか、多く勧請されることはなかった。江戸時代の人たちは池鯉鮒大明神をどういう神として認識していたのだろう。
『愛知県神社名鑑』は池鯉鮒社についてこう書いている。 「創建は天保三癸巳(1833)4月3日と伝う。明治6年、据置公許となる。昭和34年9月26日襲来の伊勢湾台風により被害をうけたが氏子の熱意により復旧した」
1833年の4月なら天保四年になると思うのだけどそれはいいとして、『尾張志』(1844年)の熱田前新田の項にこの神社が載っていないのはどうしてか。完成の1844年より前から調査は始まっていたはずだけど、その時点ではまだ建ってなかったということか。 『尾張志』の熱田前新田の項にあるのは「稲荷社二所 神明ノ社 龍神ノ社」となっている。 『尾張徇行記』は1822年完成なので、そのときはまだ池鯉鮒社はなかったということになるだろう。 それにしても、熱田前新田の完成が1801年なのに、神社創建が1833年というのは時期的にちょっと中途半端な気もする。そのあたりの事情はよく分からない。
熱田前新田の開発は、尾張藩第9代藩主・徳川宗睦の命により尾張藩直営事業として行われたものだ。 現場の責任者は尾張藩熱田奉行の津金文左衛門胤臣(つがね たねおみ)だった。 津金氏はもともと甲斐武田家の家臣で、武田勝頼亡き後、尾張に移り住んだ。 津金胤臣はそれから7代目に当たり、文武両道の人で藩主からの信頼も篤かった。江戸時代は50歳くらいで隠居となるところを老齢になるまで藩に仕えていたことからもそれがうかがえる。熱田前新田の開発を任されたときは70歳を超えていた。 熱田前新田は財政難もあり大変な苦労を強いられることになる。それでも突貫工事で半年で完成させた。 それを見届けて安心したのか、ほどなくして津金胤臣はこの世を去った。一説では割腹自殺だったともされるも、75歳という年齢からして病死だった可能性が高そうだ。
このあたり一帯を所有していたのが、名古屋萱屋町で味嗜たまり商をやっていた中村与右衛門で、屋号が佐野屋だったことから、佐野屋の「さ」の付く魁町(さきがけちょう)と名づけられた。 近くの佐野町(さのまち)や幸町(さいわいちょう)も同じ理由から来ている。 魁(さきがけ)というと何かいわくありげな町名だけど、実は大した意味はないのだった。 ちなみに魁は「カイ」とも読み、先駆けや首領、大きくて堂々としているといった意味の言葉だ。もともとは大きな柄杓(ひしゃく)を意味する漢字だった。柄杓は枓とも書き、鬼と斗を足して魁という字になっている。 ついでに書いておくと、名古屋城下の九十軒町に丹羽郡千秋村宇佐野(愛知県一宮市千秋町)から佐野屋与右衛門が移り住み、その後に中村清左衛門と中村与右衛門が道の向かいにそれぞれ家を建てて酒屋と味噌屋を始めて佐野屋を名乗ったことから、そこは佐野屋の辻と呼ばれていた。今の東区相生町だ。
ちょっと興味深い話として、池鯉鮒社は中川の上流から流れてきた御札を拾って中川橋近くで祀ったのが始まりというのがある。 事実かどうかはともかく、そういう話が伝わっているということに何らかの意味がある。どうしてそれが池鯉鮒社となったのか。 もとは蛇神を祀るという説もあったようだけど定かではない。 現在地に移されたのは明治40年(1907年)で、もともとはもう少し東の中川河口近くにあったようだ。明治40年は名古屋港が開港した年で、このあたり一帯も埋め立てで土地を造成しているので、それに伴うものだったと考えられる。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)、大正、昭和の地図を辿るとそのあたりの変遷が見てとれる。
境内に「八紘一宇」と刻まれた石碑がある。皇紀二千六百年を記念して建てたもののようだから昭和15年(1940年)だ。 八紘一宇(はっこういちう)というのは、世界をひとつの家にするという『日本書紀』の八紘為宇をもじったもので、アジア侵略を正当化する政治スローガンとして使われた言葉だ。 池鯉鮒社に願掛けすると戦死しないという話があったそうで、戦時中はお参りに訪れる人が多かったという。この神社で見送られて出征していった若者も少なくなかっただろう。 この神社もやはり伊勢湾台風で被害を受けている。伊勢湾台風の犠牲者は5,000人を超えている。
神社南の中之島川緑地は、中之島川を埋め立てて昭和61年(1986年)に作られた。 中之島川は中川と荒子川を結ぶ川で、熱田前新田の潮止めの役割を担っていた。 魁町の西の大手という地名は、海辺に大手堤があったことから来ている。
江戸時代後期創建といえば神社としては新しい部類に入るのだけど、それでも現在に至るまでにはいろいろなことがあった。悲しい歴史も積み重なっている。 しかしながら、今の池鯉鮒社に変な重たさのようなものはない。あっけらかんとして、どこかのんきな感じだ。
作成日 2018.6.30(最終更新日 2019.7.19)
|