八幡神社(下志段味)

昔も今も下志段味の氏神さん

下志段味八幡神社

読み方 はちまん-じんじゃ(しもしだみ)
所在地 名古屋市守山区下志段味石米1247 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十二等級
祭神 品陀和気命(ほんだわけのみこと)
加具都智神(かぐつちのかみ)
 アクセス ゆとりーとライン「中志段味停留所」下車(大曽根-高蔵寺)
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 下志段味村の氏神だった八幡社。
 志段味は戦国時代あたりに上・中・下に分かれたとされているので、創建はそれ以降になるだろうか。
 八幡神社が現在地に遷されたのは明治5年(1872年)のことで、庄内川が氾濫して被害を受けたのがきっかけだった。それまでは800メートルほど北西の字真光寺12番地にあったようだ(地図)。
 12番地の正確な位置は分からないのだけど、ここは現在、いいレンゲ畑がある。毎年4月の終わりから5月の初めにかけて見渡す限りレンゲの花が咲く。
 守山区下志段味でレンゲ畑を見つけた(ブログ記事)
 真光寺という地名からしてそういう名前の寺があったのだろうけど、墓地だけあって寺は現在はないと思う。他に移ったのかもしれない。『尾張志』にも真光寺は見つけられない。

『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「社蔵の棟札あり。貞享年代(1684-1687)より氏神として村民の崇敬あつく、明治5年庄内川の堤防の南約五丁の社地(下志段味字真光寺12番地)より元境内地に遷座する。同年7月28日、村社に列し、明治40年10月26日供進指定社となる。大正6年11月3日、字西新外に鎮座の秋葉神社(元沓掛村臨済宗、定光寺境内より明和九年当村に遷座の神社)を本社に合祀した。神徳、縁結び、安産、厄除、必勝の神」

 貞享年代(1684-1687年)の棟札は再建のときのもののはずで創建はもっと古い。
 少し分からないのが、下志段味にあった秋葉社を大正6年に八幡社に合祀したとある点だ。今もその秋葉社は下志段味にある(地図)。
 この秋葉社は瀬戸の定光寺から遷したものなのだけど、合祀した後も元地に残ったのか、いったん合祀した後に元地に戻したのだろうか。現存する秋葉社と合祀した秋葉社は別なのか。

 江戸期の書の下志段味村の項はそれぞれこうなっている。

『寛文村々覚書』
「社弐ヶ所 内 八幡 山之神 社内弐畝五歩 前々除」

『尾張徇行記』
「社二区、覚書ニ八幡山ノ神社内二畝五歩前々除、中志段味村祢宜市太夫持分 同村祠官水野孫太夫書上ニ、八幡社内八畝歩、山神社内二畝歩共ニ前々除、此二社勧請ノ年暦ハ不知、再建ハ元禄十二己卯年ナリ」

『尾張志』
「八幡社 下志段味村にあり」

 江戸時代前期には八幡社と山神社があったことが分かる。どちらも創建は不明で、前々除で、元禄12年(1699年)に再建したとある。
 前々除ということは1608年の備前検地のときにはすでにあったということで、『尾張志』に山神社がないということは江戸後期にはすでに廃社になったということだろうか。現在の下志段味に山神社はない。
 祠官として水野氏の名前が出てくるので、志段味を本拠としていた水野氏が神社創建に関わった可能性もある。

 神賑神事として里神楽、子供獅子が行われると『愛知縣神社名鑑』は書いている。情報が古くて今はもう行われていないかもしれないけど、こういう特殊神事が伝わっている神社は古いところが多い。

 境内には廿三夜の石碑がある。
 上志段味の勝手社と中志段味の諏訪社(中志段味)には廿二夜の石碑がある。
 どちらも月待講の人たちが奉納したものだろう。
 月待ちというのは、文字通り月を待つ行事で、講の仲間が集まって飲んだり食べたりしながら月の出を待つというものだ。最初は神事に近いものだったのがだんだん飲み会のようになっていったとされる。
 二十二夜は女性の集まりで、二十三夜は男性の集まりだったともいう。
 現在は簡略化して、旧暦の8月22日にお供えをしたりしているそうだ。

 境内社として護国神社、熱田神社、伊勢神宮、山神社、稲荷社があり、地蔵像や大峯山大権現と彫られた石などもある。境内の脇にある天王社は他から移してきたものかもしれない。
 鳥居の真新しさが少し浮いた感じになっていて、神社自体が新しいような印象も受けた。本殿は平成3年に改築されたという。
 神社の周辺が新興住宅地のようになっていて、神社との対比が少しちぐはぐな印象を受ける。数十年後にはそれらの家々も神社と馴染んで下志段味の風景となっていくのだろう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

下志段味の八幡神社へ

HOME 守山区

スポンサーリンク

Scroll Up