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有松神社

高根山に戦没者の霊が眠る

有松神社

読み方 ありまつ-じんじゃ
所在地 名古屋市緑区有松町大字桶狭間高根39-242 地図
創建年 1955年(昭和30年)
旧社格・等級等 不明
祭神 日清戦争以降の英霊
アクセス 名鉄名古屋本線「有松駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他 桶狭間古戦場保存会web
オススメ度

 桶狭間の戦い(1560年)において今川方の前線部隊として松井宗信が1,000名の兵士とともに陣取った高根山山頂に神社はある。
 神社としての創建は戦後の昭和30年(1955年)ではあるのだけど、それ以前に忠魂碑など戦没者のための石碑がこの高根山に集められており、記念碑山とも呼ばれていた。
 明治24年(1891年)に桶狭間分校に建てられた征清献捷碑が明治43年(1910年)にここに移され、同じ年に日清日露戦争に出征して戦死した有松町内の10名を慰霊するための忠魂碑が建てられた。
 昭和30年(1955年)に第二次大戦で命を落とした有松町の74名を加えてあらためて社殿を建てたのがこの有松神社だ。
 なので、有松の氏神ではなく、有松忠魂社といった方がふさわしい神社だ。

 桶狭間(おけはざま)の地名の由来については諸説あってはっきりしないものの、「クキ」と呼ばれていたところに「洞」という字を当てたことが起源とする説が有力のようだ。
 洞は窪地という意味なので、やはり地形から来ているのだろう。
 桶狭間村な南北朝時代に南朝の残党がここまで落ち延びてきて隠れ住んでできた集落といわれている。当時は丘陵地で森林地帯だったから隠れ住むにはいい土地だったのだろう。それは今のセト山付近だったとされる。
 クキはクケに訛り、さらにホケに転じたといい、谷間の地形を意味する「ハサマ」と結びついて「クケハサマ」、「ホケハサマ」と呼ばれ、やがて桶狭間とされるようになったと考えられている。
 丘陵地と丘陵地に挟まれた窪地の地形は谷間に立って見ると桶の中のように感じられたということだろうか。
 表記としては洞迫間、公卿迫間、法華迫間、桶廻間などが見られる。

 高根山はこのあたりで一番高い標高54メートルの小山で、南に幕山(地図)、巻山(地図)が連なっている。
 幕山は今川方が陣幕を張ったところから来ているといい、巻山は織田方の兵士が取り巻いたことからそう呼ばれるようになったともいう。
 今川方の前線部隊として高根山に松井宗信部隊が陣を張り、南の幕山、巻山には井伊直盛隊が陣取った。
 井伊直盛は直虎の父で、NHK大河ドラマの「おんな城主 直虎」(web)では杉本哲太が演じていた。井伊直盛は桶狭間の戦いの前哨戦で討ち死にすることになる。
 松井宗信は遠江の国人で二俣城主だった。このときは今川義元に仕えており、一番危険な最前線の指揮を任されていた。
 高根山はわずか標高54メートルとはいえ、山頂に登っていくのはかなりな急坂で、山頂に立って見れば北の善照寺砦や中島砦が丸見えだったであろうことが実感できる。

 孤立していた大高城(地図)への兵糧入れを松平元康(後の徳川家康)が成功させ、織田軍が守る鷲津砦、丸根砦への攻撃開始から事態は動いた。
 その知らせを受けた信長がほとんど単独で清須城(地図)を飛び出したのが明け方の午前4時。新暦の6月12日だから、空は白みかけていたはずだ。
 榎白山日置神社に立ち寄って戦勝祈願をしつつ戦力が揃うのを待って熱田社(熱田神宮/web)に着いたのが午前8時。
 その頃、今川義元本隊は沓掛城(地図)を出て大高城に向かった。
 信長は今川軍の行軍ルートをこのときすでに把握していたとされる。勝利を確信していたとはいえないまでも、勝機があるとすれば桶狭間付近で本隊が昼休憩をするときだと分かっていたのではないか。
 実は桶狭間の戦いの2日前、先発隊として瀬名氏俊が桶狭間にやって来て義元本隊が昼食休憩を取るための本陣を設営している。それは緑区が桶狭間の戦いの決戦地だったと主張する古戦場公園近くのセト山(地図)だった。
 しかし、実際の決戦場はおそらく豊明市が主張する栄町の古戦場伝説地(地図)だったのではないかと個人的には思っている。
 何故そういうことがいえるかというと、善照寺砦もしくは中島砦から300人ほどの少数で佐々政次隊と千秋季忠隊が無謀にも今川本隊に攻撃を仕掛けているからだ。
 高根山や幕山あたりに陣取っていた松井宗信隊や井伊直盛隊を巻き込んでの大激戦となり、当然のように佐々政次や千秋季忠たちは討ち取られた一方で、松井宗信や井伊直盛も戦死している。
 このとき今川本隊がどうしていたかといえば、豊明の古戦場伝承地あたりでそれ以上前進することをやめて戦況を伺っていたと思われる。戦となっているのが瀬名氏俊が設営した本陣予定地との間ということで進むに進めなかった。それこそが信長の狙いだったのではないか。
 戦が起きている前線と今川本隊の間に隙間ができた。信長はそのチャンスを見逃さなかった。もしかしたら信長そこまでシナリオを描いていたかもしれない。突然の豪雨という自然も味方して今川本隊が陣取るすぐ際まで気づかれずに進軍することができた。
 今川本隊がいたと思われる場所もさすがに窪地などではなく丘陵地だった。しかしそれがかえってわざわいして死角を作ってしまった。
 織田本隊は西からと南からの二方向から丘を駆け上がり、義元のいる本陣に突っ込んでいった。それは正面攻撃といえば正面攻撃だし、奇襲といえば奇襲だ。
 もし今川方の前線部隊が無傷のまま近くに陣取っていたらこの奇襲は成功しなかったかもしれない。だからこそ、無謀にも佐々政次隊と千秋季忠隊を突っ込ませたのだろう。信長にしてみれば勝つべくして勝った戦が桶狭間の戦いだったのだろうと思う。

 450年ほど前、この地で戦があった。それはロマンチックなものでもなんでもなく紛れもなく悲惨な出来事だ。
 戦は繰り返され、その後も大勢の人が命を落とした。戦争に勝ちも負けもなく、両者ともに被害者に他ならない。
 石碑や神社を建てたくらいで犠牲者の霊は慰められないかもしれない。それでも、せめて後世の私たちは忘れずに覚えておくことがわずかな慰めになるのではないかとも思う。一番悲しいのは誰からも忘れられてしまうことだから。

 

作成日 2018.10.31(最終更新日 2019.4.6)

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