土之宮神明社という名前の神明社ではなく、神明社と土之宮の合殿となっている。 古くは富田荘と呼ばれる荘園だったところで、江戸時代は助光村(すけみつむら)といっていた。 この神明社は助光村の神社だったには違いないのだけど、いろいろと分からないことがある。
富田荘(とみたのしょう)は平安時代後期の11世紀後半に成立したとされ、戸田庄(とだしょう)ともいった。中川区富田町を中心に、海部郡蟹江町、七宝町、大治町、甚目寺町あたりがそうだった。 近衛家領だったのが阿野廉子領になったり、鎌倉幕府の地頭が置かれたり、鎌倉の円覚寺(web)に寄進されたりと、所有権はあちこちに移った。 鎌倉時代末の1327年に作成された「富田荘絵図」(重要文化財)には「助光」とあり、鳥居マークが描かれている。こが助光村の神明社だろうから、少なくとも鎌倉時代にはあったということだ。 ただし、どういうわけか、『寛文村々覚書』(1670年頃)では「神明 社内 年貢地 居屋敷共 当村祢宜 忠太夫」となっている。これだけ古い神社なのにどうして前々除ではなく年貢地になっているのだろう。 『尾張徇行記』(1822年)でも「神明社内年貢地三畝十八歩」となっている。 いずれも土之宮についての記述はない。唯一、『尾張志』(1844年)だけは「神明ノ社 助光村にあり土宮神明と云文明十一己亥閏九月の棟札あり」と土之宮が出てくる。 文明11年は1479年で、室町時代中期に当たる。応仁の乱が1467年から1478年だから、その頃のことだ。この他、元亀、元和、寛政、享和、文化、天保、弘化、文政の棟札も所蔵しているという。
土之宮がいつから合殿(相殿)になったかについては調べがつかなかった。 気になったのは神社入り口の社号標が「圡之宮」になっていることだ。 土の中に点がある「圡」は泥を意味する「ヒヂ」だ。だから、この字の通り読むなら「ひぢのみや」ということになる。しかし、『愛知縣神社名鑑』は土之宮としてわざわざ「つちのみや」とフリガナをしているので、正式名は「つちのみや」なのだろう。 本来は「ひぢのみや」だったのか、もともと「つちのみや」だったのかは判断がつかない。中村区の土江神社の土も点ありで「ひじえ」神社で、中区には泥江縣神社(ひじえあがたじんじゃ)もあるので、ここも「ひぢのみや」だった可能性はある。
元から「つちのみや」だったとすると、伊勢の神宮(web)外宮の別宮・土宮(つちのみや/web)から勧請したとも考えられる。 外宮別宮の土宮は、外宮のある山田の原の地主神である大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀るとしている。外宮が遷座してくる以前からあったとされ、土御祖社という小さな社だったのが、1128年に宮川の氾濫を治めた功績を朝廷に認められて別宮の土宮に昇格した。 大土乃御祖神の他に大歳神、宇迦魂神を祀るという話があり、古くより伊勢の外宮と関係の深い篠島にある神明社もかつては伊勢土之宮を称しており、大土乃御祖神、大歳神、宇迦魂神を祀っている。 ただ、ここ富田荘が伊勢の神宮と関わりがあったかというと少し疑問を抱く。 庄内川を挟んで東一帯には一楊御厨(いちやなぎのみくりや)と呼ばれた伊勢の神宮の荘園があった。地名でいうと、烏森、治田(八田)、荒子、高畑、萬町、野田、厨郷(中郷)あたりで、富田荘成立よりも早い延喜年間(901-923年)に成立したとされる。 富田荘と一楊御厨との関係はどうだったのか。
本来は土之宮ではく圡之宮だったかもしれない理由としては、祭神が埴安比咩神(ハニヤスヒメ)になっていることがある。伊勢の土宮ではハニヤスヒメは祀っていない。 ハニヤスヒメは、日本神話において、イザナミがカグツチを産んで女陰に火傷を負って苦しんでいるときに脱糞した大便から生まれたとしている。その連想から土、または粘土の神といった性質を持つようになった。 男神のハニヤマヒコ(埴山彦)と対で祀られることもある。 土の女神ハニヤスヒメを祀るというのであれば、庄内川の氾濫から守る土手の神として祀ったとも考えられる。 いずれにしても、神明と土之宮(圡之宮)もともとは別の神社だったのだろう。
しかしここでまた、伊勢の神宮との関係を連想させる情報が引っかかってくる。『愛知縣神社名鑑』の特殊神事の項に御鍬祭というのがあるのだ。 それによると、文政十年(1827年)、明治19年(1886年)、昭和20年(1945年)に御鍬祭が行われたという。 御鍬祭の起源には諸説あってはっきりしないのだけど、伊勢の外宮が関わっていて、江戸時代中期に流行したのはどうやら確かなようだ。 60年に一度だけ行われるという不思議な祭りで、名古屋市内では港区福屋の御鍬神社にその名残をとどめている。 ここからしても、この神社が何らかの形で伊勢の外宮と関わっているのは間違いなさそうで、そうなると土之宮も外宮別宮の土宮から来ているのかと思い直す。 御鍬祭が平成17年(2005年)にも行われたかどうかは分からない。
境内に「福留将監古城跡」の石碑が建っている。 すぐ北に隣接する称円寺(稱圓寺)のあたりに助光城があったと考えられており、石碑はかつて神社北の竹藪の中にあったという。 信長の家臣に福留右近将監という人物がいたのだけど、福富左近将監や福住右近将監という人物もいたようで、そのあたりははっきり分からない。 神明社に残る一番古い文明11年(1479年)の棟札には「大檀那助光郷福富宮内左衞門尉光親」とあるので、この時代の助光城主だったのだろう。 称円寺は神明社のすぐ北にもかかわらず伏屋村(ふせやむら)の寺だったようだ。『尾張志』でも「伏屋村にありて鶴林山という知多郡大野村光明寺の末寺なり」と書いている。 『中村区の歴史』によると、もともとは江州長等山にあって崇福寺と称していたという。天智天皇7年(668年)に大津京(滋賀県大津市)の鎮護として創建されたというのだけど、本当だろうか。 長等山といえば、天台寺門宗総本山の園城寺(おんじょうじ/web)の山号でもある。三井寺といった方が馴染みがあるだろうけど、渡来系氏族の大友氏が氏寺として創建した寺だ。 崇福寺は、美濃国三橋村(岐阜県本巣市)に移り、1325年(正中2年)に尾張のこの地に移ったとされる。その頃は七堂伽藍と塔頭を16寺持つ大寺院だったそうだ。 1393年(明徳4年)に火事で焼けて没落したり、称円が再興して寺号をあらためたり、また戦火で焼けたりしつつ、1591年に現在地に仮堂を建てて復活したという経緯を辿った。
助光の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「人の名に出る歟猶訂すべし」と書いている。助光氏の田んぼがあったのが村名になったという説があるも、はっきりしない。
この神社にはかすかに古社の香りのようなものが残存しているように感じられた。個人的に中村区の油江天神社と重なる部分があって、印象と記憶と混ざっている。
作成日 2017.6.10(最終更新日 2019.5.25)
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