福田新田を開発した鬼頭景義が、海岸堤防を締め切った後、その北側に國常立命を祀ったのが始まりと社伝はいう。それが1640年(寛永17年)だったとしている。 しかし、干拓による新田開発は数年を要す工事で、1640年は工事を始めた年のはずだから、その年に堤防を締め切ることができたかどうかというとやや疑問だ。福田新田の完成は1643年(寛永20年)とされている。 ただ、鬼頭景義がこの神社を建てたということは間違いなさそうで、創建年については1640年から1643年までの間ではあるだろう。 ここでも國常立命(クニノトコタチ)が出てくる。春田野神明社や東蟹田神明社がそうであったように、どうやら鬼頭景義はクニノトコタチに対する特別な思い入れがあったらしい。伊勢の神宮(web)から勧請したというのだけど、それはおそらく外宮からで、江戸時代前期の人にとって伊勢の外宮といえばクニノトコタチという認識があったのだろうか。 出口延佳(1615-1690年)が唱えた後期伊勢神道は、尾張の地にも広く浸透していたと見るべきかもしれない。
『尾張志』(1844年)の東福田村の項を見るとこうなっている。 「神明ノ社三社 山神ノ社 熱田大明神ノ社二所 六社共に福田新田村にあり」 神明社3社のうちの1社が七反野の神明社だろう。
『尾張徇行記』(1822年)はこんな記述になっている。 「大明神三社界内一反一畝十五歩前々除 蔵屋敷九畝除地」 「横井村祠官二村長門守書上帳ニ、東福田新田ノ内神明祠 此社ハ寛永十九年勧請也 山ノ神社 此社ハ寛永二十一年巳年勧請也」 「中ノ郷村祠官高羽但馬守書上帳ニ、福田新田七段ノ割神明大明神二社」 これだけの情報でははっきりしたことは分からない。
現在の祭神に熱田大神が入っていて、かつての東福田新田のエリアに熱田社はないので、どこかの時点で熱田大明神のうちの一社、もしくは二社とも七反野の神明社に合祀されたと考えられる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「創建は明かではない。七反野鎮守の神として崇敬あつく明治5年7月、村社に列格する。昭和63年9月、社務所・神楽庫を改築した」 ひとつ気になるのは、本殿を流造と書いていることだ。『愛知縣神社名鑑』は古い情報を元にしているので、現状とは違っている部分が多いのだけど、単なる間違いなのか、実際に流造だったのかは分からない。現在は神明造になっている。 この神社は第二次大戦の空襲で全焼しているから、戦後に建て直すときに神明造にしたのかもしれない。
七反野(しちたんの)の由来については、田んぼの単位である「反」に基づいて田を区切ったところから来ているという説と、鬼頭景義が七反歩を神社に与えたからという説がある。 鬼頭景義が田を与えたという話はありそうだし実際にあったのかもしれないけど、七反野の「野」が気になる。五反田という地名があるように、それなら七反田の方が自然だ。 由来は別のところからかもしれない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、七反野集落の南側に神社があったことが分かる。 南側の道が福田新田開発当時の海岸堤防だ。東の新川と西の戸田川からそれぞれ堤防を伸ばしていってぶつかったのがこの場所で、ここで堤防が締め切られた。神社はそのすぐ北側ということになる。 神明社の鳥居マークの他に南側にも鳥居マークが描かれている。現在、七反野地蔵堂がある場所だ。小さな社もあるのだけど、これのことを示しているのだろうか。この鳥居マークは1976-1980年の地図から卍マークに変わる。 地蔵堂は工事で命を落とした人たちの霊を慰めるために建てられたものだ。その後に建てられたお堂や作られた仏像なども集められているのだろう。お堂には阿彌陀如来・善光寺・西国三十三観音、地蔵菩薩、釈迦如来・薬師如来・弘法大師と書かれた札が掛けられている。中には阿弥陀如来像や観音像などが安置されている。 七反野集落については戦後まで状況はあまり変わらない。1960年代以降に少しずつ民家が増えて田んぼが減っていった。 1980年代になると、北の七反野1丁目に田んぼを残し、2丁目は住宅地になった。 1990年代には、北の1丁目にもほとんど田んぼはなくなった。
それにしても、東福田新田の神明社だけクニノトコタチを祀ったのは何故だったのか。伊勢神道が流行ったにしても、周辺地区の神明社ではクニノトコタチを祭神としていない。鬼頭景義が同時進行で開発した西福田新田でもクニノトコタチを祀る神明社はない。 鬼頭景義は他にも中島新田や熱田新田など、27ヶ所の新田を開発しており、それらの新田村の神社でもクニノトコタチを祀っていない。もしかすると、鬼頭景義とクニノトコタチは無関係なのだろうか。 東福田村とクニノトコタチの関係は結局分からずじまいだ。
作成日 2018.8.15(最終更新日 2019.7.30)
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