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貴船社(貴船)

矢白社は実在したのか?

貴船貴船社

読み方 きふね-しゃ(きふね)
所在地 名古屋市名東区貴船2丁目1901番地 地図
創建年 1662年?(江戸時代前期)
旧社格・等級等 村社・十三等級
祭神 罔象女神(みつはのめのかみ)
アクセス 地下鉄東山線「上社駅」から徒歩約24分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 名古屋市内に現存する貴船社は2社のみで、2社とも名東区内にある。区別するために貴船にある方を貴船社、一社の方を貴船神社と呼んでいる。どちらも正式名は貴船社だ。
 かつてこのあたりは社郷と呼ばれており、江戸時代は上社村(かみやしろむら)、下社村(しもやしろむら)、一色村(いしきむら)に分かれていた。分村したのは室町時代ではないかととされている。
 社の郷の社は矢白から来ているという話がある。それはこんな伝説だ。

 ヤマトタケルの父である景行天皇の時代、大臣・武内宿禰(たけうちのすくね)が全国を視察して回っている途中でこの地に立ち寄った。
 そのとき村は水不足に悩まされており作物が育たずに困っていた。それを見た武内宿禰は白鷹の羽で作った矢を村人に与え、水の神である罔象女神(ミツハノメ)を祀るようにいった。
 村人たちはその通りにしたところ雨が降って水不足は解消されて喜び、白い羽の矢を祀った社は矢白社と呼ばれるようになった。
 その後、矢白から社に転じ、矢白社を堺に北を上社、南を下社というようになったのだと。

 もちろんこれは昔話のたぐいで、武内宿禰も伝説上の人物で実在したかどうか定かではない。矢白神社という神社は現存せず、どこかにあったという伝承も残っていない。
 しかし、矢白で思いつくのは、「白羽の矢が立つ」という言葉だ。
 現代では特別に選ばれる名誉なことのような使われ方をするこの言葉は本来、人身御供(ひとみごくう)として選ばれることを意味していた。それは多くの場合、幼い少女で、その家の屋根に白い羽の矢を立てたことから白羽の矢が立つという言葉が生まれた。
 社郷が水不足に困っていて作物が育たなかったのは本当だろう。このあたりは丘陵地帯で、溜め池は雨が降らなければ干上がってしまう。
 そこで水の神を祀り、少女を生き埋めにするか何かして雨乞いをしたのではなかったか。
 そして雨が降ったことから少女を埋めた場所に祠を建てて祀ったということは充分に考えられる。いつしかそれが矢白社と呼ばれるようになり、村名になったのかもしれない。
 現代の我々は矢白と聞いてもすぐにはピンと来ないけど、昔の人たちなら当然暗黙の了解として分かっていたはずだ。
 そんな作り話などありはしないと笑い飛ばすこともできるけど、貴船社を訪ねてみればそんなことがかつてあったのかもしれないと思わせる雰囲気が漂っている。

『尾張国地名考』の中で津田正生は、社は八代から来ている説と、屋代から来ている説を紹介している。
 八代の代は古い単位のことで、六尺を一歩とし、七十二歩を一代とするといったように田んぼの面積から来ているのではないかというのがひとつ。
 屋代は斎場(いみば)から来ていて、斎場で神を祀ったことから宮の代わり、屋代と呼ばれ、そこから社に転じたのかもしれないとする。

 千種区の自由が丘、東山から名東区一帯にかけての丘陵地は縄文、弥生の頃から人が暮らしていた地区で、古墳時代後期から鎌倉時代にかけて多くの窯が作られ、須恵器などの高級焼き物を焼いていた。
 古墳もあったという話があるものの、それらは調査されないまま都市開発で消滅した。
 こういった長い歴史を持つ土地にもかかわらず、古い神社がないのは何故なのか。高針の高牟神社や藤森の神明社、猪高町の和爾良神社は式内社の論社となっているものの、有力視はされていない。
 貴船社の前身の矢白社というものが本当にあったとすれば、伝承の真偽はともかくとして、必ずしも唐突で荒唐無稽なことではない。
 窯で焼き物を焼いていた集団は鎌倉時代を最後にここから東の猿投や瀬戸に移っていった。土を掘り尽くしたのか、燃料となる木を切り尽くしてしまったからと考えられている。それに伴って神社も捨て置かれてしまっただろうか。
 その後、このあたりは奈良東大寺(web)の荘園になった。

 江戸時代、下社村、上社村、一色村にはそれぞれ貴船社があった。
 今の貴船、陸前町あたりが下社村、上社、社が丘あたりが上社村、一社、高社が一色村に当たる。
 貴船の貴船社は下社村の貴船社だった。

 江戸期の書の三村の神社はそれぞれ以下のようになっている。

『寛文村々覚書』 (1670年頃)

 下社村
「社 四ヶ所 内 貴船大明神 富士権現 山之神弐社 社内年貢地 新居村 祢宜 与太夫持分」

 上社村
「社 三ヶ所 内 山王 明神 山之神 社内壱反壱畝歩 前々除 新居村 祢宜 与太夫持分」

 一色村
「山之神壱社 春日井郡新居村 祢宜 与太夫持分 社内年貢地」

『尾張徇行記』(1822年)

 下社村
「社四ヶ所 覚書ニ貴船大明神・富士権現・山神二社境内年貢地、新居村祢宜与太夫持分トアリ 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、貴船大明神祠境内一反、富士権現祠境内一畝、山神二祠 境内一ツハ一反、イツレモ年貢地ナリ」

 上社村
「社三ヶ所、覚書ニ、此内山王・明神・山神社内一反一畝前々除、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、山王社内一反六畝、貴船大明神社内一反二畝、山神社内三畝何レモ前々除」

 一色村
「山神祠覚書ニ、社内年貢地、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、貴船大明神境内三畝廿歩、山神境内三畝六歩、富士権現境内廿歩、イツレモ年貢地」

『尾張志』(1844年)

 下社村
「貴布禰ノ社 高龗ノ神(タカヲカミのカミ)を祭る當村の本居神とす
 富士ノ社 木花開耶姫ノ命を祭るといへり
 山神ノ社 貴布禰ノやしろより戌の方にあり大山祇命をまつれり
 山神ノ社 貴布禰ノ社より未の方にあり祭神上に同し

 上社村
「山王社
 貴布禰ノ社
 山神ノ社

 一色村
「貴船社
 山神ノ社
 富士ノ社」

 これらの史料から判断すると、三村のうちの元郷といえるのが上社村で、後に下社村と一色村が独立したという格好ではないかと思う。
 それは、上社村の神社だけが前々除となっていて、下社村と一色村の神社が年貢地になっていることからの判断だ。これは絶対的なものではないのだけど、ひとつの判断材料にはなる。前々除ということは、1608年に行われた備前検地以前から除地だったということで、古い神社の社地は除地になっていることが多い。逆にそれ以降に建てられた神社は年貢地になっていることが多い。

 一色村の村名は、柴田勝重が築いた一色城から来ているとされる。
 一色城は今の一社貴船社と隣の神蔵寺のあたりにあったと考えられている。
 尾張守護職の斯波氏の命を受けて東の今川氏の備えとして社村に城を築いたとされる。一色城の呼び名は、柴田勝重が足利将軍家の有力大名だった一色家と何らかの関わりがあったからではないかという。
 柴田勝重は1503年に没しており、神蔵寺の記録ではそのときは社村となっており、翌1504年の記録では一色村神蔵寺となっていることから、柴田勝重の死と一色村成立が関係しているのではないかと『名東区の歴史』は書いている。
 ただ、加藤勘三郎が城主を務めていた上社城が1469年に廃城となった(高針城を築城して移ったため)という話があり、上社村の名称はともかく、1504年より前に三村状態になっていたとも考えられる。
 柴田勝重は柴田勝家の祖父(または曾祖父)で、勝家は上社村、または下社村で1522年(1530年とも)に生まれたとされる。

 江戸期の書でいうと、一色村に最初にあったのは山神社一社のみということになる。柴田勝重もしくはその子孫が神社創建に関わったかどうかは何とも言えない。社地が年貢地になっているということは、江戸時代に入ってからの創建とみていいだろうか。
 上社村の山王、明神、山之神はいずれも前々除なので、江戸時代以前の創建と考えていい。山王は今の日吉神社(上社)で、明神は貴船社のことだ。上社の貴船社は明治42年に日吉神社に合祀された。山神社も同じく合祀されている。
 下社村の貴船社、冨士社、山神社二社は江戸時代前期にはあったものの、すべて年貢地となっている。
『尾張志』が書いているように貴船社が村の本居神だった。富士社と山神社は現在、貴船社の境内社となっている。
 一色城は1584年の小牧長久手の戦いのとき羽柴軍に焼かれて廃城になったとされる。
 下社城は柴田勝家の生誕地ともいわれるところで、勝家が1575年に越前の北ノ庄城に移ったのを機に廃城になったといわれている。
 上社村の貴船社がいつの時代の創建かということだけど、江戸時代以前のいつかとまでは言えてもどこまでさかのぼれるかは分からないとしか言えない。矢白社から転じたものだとすれば、社郷ができた当初ということになり、かなり古い可能性もある。
 下社村の貴船社は江戸時代に入ってからとすれば、上社村の貴船社からの分社ではないだろうか。『愛知縣神社名鑑』がいう1662年(寛文2年)9月創建は正しいかもしれない。
 一色村の貴船社は更にその後、1670年以降ということになりそうだ。

 ひとつ気になったのは、『尾張志』では貴船社で高龗ノ神(タカヲカミのカミ)を祀るとしているのに現在の祭神が罔象女神(ミツハノメ)を祀るとしている点だ。一社の貴船社の祭神も罔象女神になっている。
 貴船社の総本社は京都鞍馬にある貴船神社(web)で、高龗神を祭神としている。社村の貴船社が貴船神社から勧請して建てたのであれば高龗神を祀るとするのは自然なことだ。明治以降に高龗神から罔象女神に祭神を変えたのはどういう理由からなのか。
 高龗神も罔象女神も同じ水の神ではあるけど系統が違う。
 罔象女神は奈良県吉野の丹生川上神社の中社(web)の祭神として知られている。ただ、罔象女を主祭神として祀っている神社は少ない。多くのところで配神として祀られている。
『古事記』では弥都波能売神と表記し、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷で苦しんでいるとき、イザナミの尿から生まれたのがミツハノメとしている。
 タカオカミは、イザナミが死んでしまったことに怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したときに剣からしたたった血から生まれたとする。
 タカオカミは龍神的な性格から雨乞いの神というイメージが強く、ミツハノメは尿からの連想で走る水(水走)、川や井戸、灌漑用水など、恵みの水を与えてくるというイメージがつけられている。また、水の妖精として語られることもある。
 上社、一社、高針のあたりは、小さな起伏が多い丘陵地で、水田には向かない土地だった。江戸時代は現在302号線が通っているあたりの狭い平地を耕作して水田にしていた。
 名東区の中央部を北から南に流れる植田川(かつては社川と呼ばれていた)はあるものの、江戸時代の灌漑技術では高地まで水を引くことができなかったため、このあたりには多くの溜め池が作られた。牧野が池や塚ノ入池などはその頃の名残だ。
 溜め池で農作をしていると、雨だけが頼りということになる。雨が降らなければ作物を育てることができない。だから、雨乞いのために水の神を祀る神社を建てたというのは理解できる。
 それならやはり、タカオカミの方が合ってるように思うし、江戸時代の『尾張志』にそうあるならもともとはそうだったのだろう。ミツハノメになった経緯は不明だ。

 三村の貴船社については結局のところよく分からないというのが正直なところだ。上社村の貴船社が最初にあって、下社村、一色村の順番で分社したという予想も合っているという自信はない。
 矢白の伝説についていえば、土地柄からしてそういうことがあったとしても不思議ではないとは思う。それが神社につながったかどうか、矢白社が貴船社になったかどうかは何とも言えない。
 社郷の成立がいつ頃だったのかも鍵を握っているのだけど、推測するのも難しい。
 一歩引いてみると、名古屋市内に残ったのが社村の貴船社だけというのは何故だったのかと思う。江戸時代まではもっとあっただろうけど、明治以降は雨乞いの神も必要なくなったということだろうか。
 京都の貴船神社は丑の刻参り発祥とされる神社だ。呪いや縁切りの神社と一部では言われている。
 貴船の貴船社にもどこか悲しげな空気が満ちているように感じられたのは気のせいだっただろうか。

 

作成日 2018.1.14(最終更新日 2019.1.29)

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