貴船社(貴船)

矢白社は実在したのか?

貴船貴船社

読み方 きふね-しゃ(きふね)
所在地 名古屋市名東区貴船2丁目1901番地 地図
創建年 不明
社格等 村社・十三等級
祭神 罔象女神(みつはのめのかみ)
アクセス

・地下鉄東山線「上社駅」から徒歩約24分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名古屋市内に貴船社はおそらく2社しかなく、その2社は名東区の貴船と一社にある。
 どちらも正式名は貴船社で紛らわしいので、貴船の方を貴船社、一社の方を貴船神社と呼んでいる。
 かつてこのあたりは社郷と呼ばれており、江戸時代は上社村(かみやしろむら)と下社村(しもやしろむら)に分かれていた。そこに隣接して一色村(いしきむら)があった。
 社の郷の社は矢白から来ているという話がある。それはこんな伝説だ。

 ヤマトタケルの父である景行天皇の時代、伝説の大臣・武内宿禰(たけうちのすくね)が全国を視察して回っている途中でこの地に立ち寄った。
 そのとき村は水不足に悩まされており作物が育たずに困っていた。それを見た武内宿禰は白鷹の羽で作った矢を村人に与え、水の神である罔象女神(ミツハノメ)を祀るようにいった。
 村人たちはその通りにしたところ雨が降って水不足は解消されて喜び、白い羽の矢を祀った社は矢白社と呼ばれるようになった。
 その後、矢白から社に転じ、矢白社を堺に北を上社、南を下社というようになったのだとか。

 もちろんこれは伝承に過ぎず、矢白神社という神社は現存しない。矢白社が貴船社の前身という話もあるのだけど、貴船社の実際の創建は江戸時代のようなので、矢白社自体も疑わしい。
『尾張国地名考』の中で津田正生は、社は八代から来ている説と、屋代から来ている説を紹介している。
 八代の代は古い単位のことで、六尺を一歩とし、七十二歩を一代とするといったように田んぼの面積から来ているのではないかというのがひとつ。
 屋代は斎場(いみば)から来ていて、斎場で神を祀ったことから宮の代わり、屋代と呼ばれ、そこから社に転じたのかもしれないとする。

 千種区の自由が丘、東山から名東区一帯にかけての丘陵地は縄文、弥生の頃から人が暮らしていた地区で、古墳時代後期から鎌倉時代にかけて1,000を超える窯が作られ焼き物(須恵器)が焼かれていた。それらを東山古窯(ひがしやまこよう)と呼び、100基近くが発掘されている。
 どうやら前方後円墳などの古墳もあったようなのだけど、それらは調査されないまま現存していない。
 こういった長い歴史を持つ土地にもかかわらず、古い神社がないのはどうしてなのだろう。高針の高牟神社や藤森の神明社は式内社の論社となっているのだけど、あまり有力視されていない。
 貴船社の前身の矢白社というものが本当にあったとすれば、それは必ずしも唐突で荒唐無稽な話ではない。
 窯で焼き物を焼いていた集団は鎌倉時代を最後にここから更に東の猿投や瀬戸に移っていった。土を掘り尽くしたのか、燃料となる木を切り尽くしたのかもしれない。それに伴って神社も捨て置かれてしまっただろうか。
 中世は奈良東大寺(web)の荘園だった。

 江戸時代、上社村、下社村、一色村にはそれぞれ貴船社があった。
 貴船は下社村だったと思うのだけど、上社村と下社村の堺がよく分からない。
 一社の貴船社(貴船神社)は一色村だったと思う。
『愛知縣神社名鑑』は貴船の貴船社を一色村としているけどそれはたぶん間違いだ。(一色は一社の誤りか)と書いているくらいだから、著者は一色村があったことすら知らないようだ。
 一社は明治8年に一色村と下社村が合併したときそれぞれ一字を取って名付けられた。
 現在の上社に貴船社はない。そのあたりの経緯も調べがつかなかった。
 それぞれの貴船社の創建がいつだったのかも、はっきりしたことは分からない。江戸時代の前期のようだけど、同時期だったのか違うのか、どの貴船社が一番先だったのか。
 貴船の貴船社の由緒では創建が1662年(寛文2年)というのだけど、それもちょっと微妙なのだ。
 江戸期の書を古い順に見ていくと以下のようになっている。

『寛文村々覚書』
 尾張藩が1655年から1658年かけて調査したものをもとに1670年頃まとめられたと考えられている。

 上社村
「社 三ヶ所 内 山王 明神 山之神 社内壱反壱畝歩 前々除 新居村 祢宜 与太夫持分」

 下社村
「社 四ヶ所 内 貴船大明神 富士権現 山之神弐社 社内年貢地 新居村 祢宜 与太夫持分」

 一色村
「山之神壱社 春日井郡新居村 祢宜 与太夫持分 社内年貢地」

『尾張徇行記』 
 尾張藩の官吏だった樋口好古が尾張国中を歩き回って調査して、1792年から1822年まで30年かけてまとめたもの。

 上社村
「社三ヶ所、覚書ニ、此内山王・明神・山神社内一反一畝前々除、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、山王社内一反六畝、貴船大明神社内一反二畝、山神社内三畝何レモ前々除」

 下社村
「社四ヶ所 覚書ニ貴船大明神・富士権現・山神二社境内年貢地、新居村祢宜与太夫持分トアリ 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、貴船大明神祠境内一反、富士権現祠境内一畝、山神二祠 境内一ツハ一反、イツレモ年貢地ナリ」

 一色村
「山神祠覚書ニ、社内年貢地、新居村祢宜与太夫持分 新居村祠官谷口仁太夫書上ニ、貴船大明神境内三畝廿歩、山神境内三畝六歩、富士権現境内廿歩、イツレモ年貢地」

『尾張志』
 1844年、尾張藩の命により編さんされた尾張国の地誌。1752年に完成した尾張藩最初の地誌である『張州府志』をもとに再調査を行い改訂したもの。

 上社村
「山王社
 貴布禰ノ社
 山神ノ社

 下社村
「貴布禰ノ社 高龗ノ神(タカヲカミのカミ)を祭る當村の本居神とす
 富士ノ社 木花開耶姫ノ命を祭るといへり
 山神ノ社 貴布禰ノやしろより戌の方にあり大山祇命をまつれり
 山神ノ社 貴布禰ノ社より未の方にあり祭神上に同し

 一色村
「貴船社
 山神ノ社
 富士ノ社」

 以上をまとめると、上社村にあったのは山王社、明神社、山之神社で、江戸時代後期には明神社は貴布禰ノ社となっている。
 もともと明神社は貴船社のことだったのか、あとから変えられたのかはちょっと判断がつかない。
 山王社は上社2丁目の日吉神社(地図)として現存している。山神社は今はない。
 上社村の三社はいずれも前々除となっているから古い神社の可能性が高い。
 下社村は江戸時代を通じて貴船社、富士社、山神2社で変わらなかったようだ。
 下社村の貴船社が今の貴船の貴船社だと思う。
 富士社と山神社は貴船社に移されて境内社として祀られている。
 4社とも年貢地となっていることから江戸時代に入ってから創建されたものだろうか。
 一色村はもともと山神社だけがあり、あとから貴船社と富士社が増えたということのようだ。
 一色村の貴船社が一社の貴船社だとすれば、その創建は1670年以降ということになりそうだ。
 富士社と山神社は現存していない。
 3社とも年貢地となっている。
 貴船の貴船社の由緒にいう1662年創建がどうして微妙なのかというと、『寛文村々覚書』の成立が1670年ごろで、調査自体は1655-1658年頃行われたとされているからだ。その後の追加調査で1662年創建の貴船社が追加登録されたというのであれば、1662年創建というのは間違っていないかもしれない。あるいは、もっとさかのぼるのではないかという可能性もある。

 気になるというか問題は、『尾張志』がいう「貴布禰ノ社 高龗ノ神(タカヲカミのカミ)を祭る當村の本居神とす」という部分だ。
 貴船社の総本社は京都の鞍馬にある貴船神社(web)で、高龗神(たかおかみのかみ)を祭神としている。だから、貴船の貴船社が貴船社を名乗るのであれば当然高龗神を祭神とするのが自然だ。しかし、貴船も一社の貴船社も祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)になっている。
 高龗も罔象女も同じ水の神ではあるけど系統が違う。
 罔象女は奈良県吉野の丹生川上神社の中社(web)の祭神として知られている。ただ、罔象女を主祭神として祀っている神社は少ない。多くのところで配神として祀られている。
『古事記』では弥都波能売神と表記し、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷で苦しんでいるとき、イザナミの尿から生まれたのが罔象女としている。
 高龗は、イザナミが死んでしまったことに怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したときに剣からしたたった血から生まれたとする。
 高龗は龍神的な性格から雨乞いの神というイメージが強く、罔象女は尿からの連想で走る水(水走)、川や井戸、灌漑用水など、恵みの水を与えてくるというイメージがつけられている。また、水の妖精として語られることもある。
 貴船社の祭神がいつどういうきっかけで高龗から罔象女に変えられたのだろう。時期としては明治以降ということになるのだろうか。
『尾張志』が一色村だけ貴船社として、上社村と下社村のものを貴布禰ノ社と表記したのは何か意味や理由があったのか。

 上社、一社、高針のあたりは、小さな起伏が多い高台の地形で、水田には向かない土地だった。
 名東区の中央部を北から南に流れる植田川(かつては社川と呼ばれていた)はあるものの、江戸時代の灌漑技術では高地まで水を引くことができなかったため、このあたりには多くの溜め池が作られた。牧野が池や塚ノ入池などはその頃の名残だ。
 溜め池で農作をやっていると、雨だけが頼りということになる。雨が降らなければ作物を育てることができない。だから、雨乞いのために水の神を祀る神社を建てたというのは理解できる。
 それならやはり、高龗の方が合ってるように思うし、江戸時代の『尾張志』にそうあるならもともとはそうだったのだろう。罔象女になった経緯がよく分からない。

 ここまで見てきて、分からないことがいくつか残った。というよりも確信を持てることはほとんどないといった方がいいかもしれない。
 一歩引いてみると、名古屋市内で貴船社がここにしかないというのも不思議だ。逆にいうと、どうしてここだったのか。
 かつては各地にあってたまたまここにだけ残ったのか、最初からここにしかなかったのか。
 名東区は郊外の住宅地というイメージが強く、縄文時代からの歴史があることについて語られることは少ない。古墳についても本当にあったのかどうかすらはっきりしない。
 名東区の神社を知るためには、そのあたりの土地の歴史から知らなければならないように思う。
 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

貴船の貴船社 —社は矢白から来ているとすれば

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