すぐ西にある八幡社(東茶屋)とともに茶屋新田にあった神社で、両社ともに茶屋新田を開発した茶屋家が創建したと伝わっている。しかし、同じ新田村のごく近い場所に何故ふたつも神社を建てたのかという疑問を抱く。 八幡社は茶屋新田開発前に三十番神の中の十一日神である八幡大菩薩を祀って祈願し、新田の開発が成った後に男山八幡宮(石清水八幡宮 web)からあらためて勧請して神社を建てたという。三十番神を祀ったのは茶屋家が日蓮宗だったためだ。 神明社境内にある説明板によると、この神明社は茶屋新田開発の数年後に伊勢の神宮(web)から勧請して建てたという。 新田開発の成功を八幡大菩薩に願い、村の守りと五穀豊穣を神明社に祈ったということだろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に、寛文三年(1663)名古屋の茶屋長寛により茶屋新田を開発に際し、村の安全と五穀豊穣を祈って創祀した。明治5年7月、村社に列格し、明治40年10月26日、供進指定社となる。昭和16年3月、社殿を改築する。伊勢湾台風に被災したが氏子の熱意により完全復旧した」
茶屋長寛は茶屋長意の間違いだろう。 茶屋長意(新四郎長吉)は尾張の茶屋家初代で、尾張藩の御用商人を務めながら新田開発も行った人物だ。初代長意が茶屋新田を、二代の長以が茶屋後新田(1677年)を開発した。 茶屋新田や茶屋家については八幡社(東茶屋)のページに書いた。
ひとつ分からないのは、西隣の八幡社は1815年(文化12年)に新田が水没したときに社殿が流されて、その後、明治17年(1884年)に再建されるまで神明社と合併したという話だ。 神社があるのは茶屋新田の集落があった場所で、東を新川と庄内川が平行して流れており、南には藤高新田があった。その南の藤高前新田は1822年の開発なので1815年当時はまだない。 新田に水が入ったというのがどういう状況だったのかよく分からないのだけど、新川の堤防が決壊したのか、南の海側の堤防が破れたのかどちらかだろう。だとしたら、何故、新川に近い神明社は無事で、新川から遠い八幡社は流されてしまったのか。単に水に浸かったというだけでなく社殿が流されてしまうというのはよほどのことだ。当時はこういう位置関係ではなかったということだろうか。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神明社の鳥居マークだけあって八幡社の鳥居マークがない。八幡社は1884年に今の場所に再建されているから描かれていてもおかしくない。 八幡社の鳥居マークが現れるのは、ようやく1968-1973年(昭和43-昭和48年)の地図からだ。 地図だけでは判断ができないのだけど、そのあたりの状況がどうだったのかがよく分からない。
『尾張志』(1844年)には、「神明ノ社 茶屋新田にあり」とある。 八幡社は1815年に流失しているから載っていないのは当然ではあるのだけど、合殿になっていたらそう書かれていてもよさそうなのに書かれていない。 『尾張徇行記』(1822年)には、「覚書ニ、神明社界内一段御国検除、熱田祢宜大原三右衛門持分」とあり、やはり八幡社に関する記載がない。
以上のように歴史的な部分でははっきりしないところがあってもやもや感が残った。 しかしそれはそれとして、この神社そのものは個人的に気に入った。いい意味での物々しさみたいなものを感じられる。何者かの意志が残存していて境内の空気を支配している。 銅板を貼り付けた立派な鳥居をくぐるってすぐに独特の空気を感じる。 参道は草が生えてやや荒れ気味でありながら、それがかえっていい。訪れる人が多くない分、場として荒らされていない感じがする。 ちょっと湿って重たいくらいの空気感が妙に心地いい。それは隣の八幡社には感じなかったものだ。 拝殿に力神(リキジン)がいる。港区ではちょくちょく力神に出会う。この地域では一種の流行りだったようだ。 現在の社殿は昭和12年(1937年)に再建されたものだという。第二次大戦の空襲では焼けず、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風にも耐えたということだ。 拝殿の横に稲荷社、洲原社、出雲大社がある。 参道の右手の小高くなっている場所にも小さな社がある。そちらは名前がないので分からない。 「御嶽大神・開山 覚明霊神・教祖 意覚霊神」とある石碑は御嶽教の信者が建てたものだろう。
茶屋家がいつまでこの茶屋新田を所有していたのかは分からない。子孫が今もこの地に住んでいるだろうか。 私が境内で感じたのは何かがいるといった気配のようなものだった。もしかすると茶屋長意か、その子孫の霊が今もこの神明社を守っているのかもしれない。神社をたくさん回っていると、ときどきそんなことを感じるときがある。
作成日 2018.8.8(最終更新日 2019.7.28)
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