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八劔社(土古町)

土古山新田は八劔神を選んだ

土古町八劔社

読み方 はっけん-しゃ(どんごちょう)
所在地 名古屋市港区土古町3丁目6 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十五等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
アクセス あおなみ線「名古屋競馬場前」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他 例祭 10月5日
オススメ度

 江戸時代前期の1647-1649年にかけて尾張藩主導で熱田沖を干拓して新田を作った。そこは後に御新田(熱田新田)と呼ばれた。
 熱田新田の南西部を更に干拓したのが甚兵衛新田(1696年)で、その東側を干拓したのが土古山新田(どんこやましんでん)だ。1740年のことだった。
 この八劔社は土古山新田の氏神として建てられたとされる。それが本当であれば創建は1740年以降ということになる。

 土古山新田は海東郡蟹江村の鈴木新助が開拓した新田で、請負新田といって藩に500両を納めて作ったものだ。
 実は干拓による新田開発は良い面だけでなく悪い面もあった。田畑が広くなって作物がたくさん収穫できればそれだけ藩が潤うと思うのは間違いで、人手不足や自然破壊、灌漑や治水の問題が深刻だった。
 新田開発に人手を取られると本田での農作業ができなくなって本田が荒れるという本末転倒も起こり、干拓によって川の流れがゆるくなって洪水が増えたり、自然環境が変わることで思いがけないマイナスの影響もあったりした。そのため、藩は1700年代に一時、新田開発を停止している。
 新田開発というのは今でいうと投機的な性格も併せ持つもので、江戸時代中期になると豪商や豪農が金にものをいわせて新田開発を行うようになる。尾張藩はこの頃になると深刻な財政難に陥っており、自ら新田開発をする余力がなくなっていた。
 土古山新田の請負新田というのもそのひとつだった。
 八劔社を創建したのが鈴木新助だったのかどうなのか分からない。棟札とかは伝わっていないようだ。このあたりは何度も水害に遭っているのと伊勢湾台風の被害で流されてしまったものも多い。

『尾張志』(1844年)は、「八劔ノ社 土古山(どうこやま)新田にあり」と書く。
『愛知県神社名鑑』も『尾張志』の内容を紹介して、あとは明治12年に村社に列格したと付け加えるのみだ。
『尾張徇行記』(1822年)は土古山新田の神社についての記載がない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、現在の東海通の元になった道があり、その通り沿いに民家が並んでいる。通りの北が土古山新田で、南が1800年に開発された熱田前新田だ。
 今の八劔社の位置は道路上なので少し動かされているようだ。鳥居マークが描かれるのは1937-1938年(昭和13年)の地図が最初なのだけど、そこは道路の南で熱田前新田側だと思うので、それ以前はもう少し北にあったかもしれない。

 現在の八劔社は東海通の一本南の細い道沿いにあり、社は東を向いている。やや不自然な立地で、もともとこんなふうに建っていたとは思えない。
 天満社があるわけでもなさそうなのに何故か鳥居前に牛像がある。近くにあった天神社を合祀しただろうか。
 祭礼の説明板には、元始祭(1/1)、五穀祭(5/5)、秋季大祭(10月第一日曜日)、秋葉神社祭(12/16)とある。
 境内社として本社と離れた位置にぽつんと一社ある。保存樹になっているムクノキの脇にあるので御神木を祀るものだろうか。
 祭礼の中に秋葉祭があるから秋葉社かもしれない。もしくはこれが天神社なのか。

 土古山新田は「どんこやま」だったのが、現在の土古町は「どんご」と読ませる。かえって難しくなった。
 土古山の由来は荒子川の砂州が小高い丘になっていたことから来ているというのがよくいわれる説なのだけど、はっきりはしていない。江戸時代中期に干拓でできた土地なので古いいわれがあるわけではない。同じ組を表す同伍(どうご)から来ているという説もある。
 近くにある小碓小学校などの小碓(おうす)の地名は、ヤマトタケルの名である小碓命(おうすのみこと)から来ている。土古山新田は一時、小碓村の大字だった時代がある。
 神社の八劔社といい、ヤマトタケルから来た町名といい、このあたりは熱田との関係が深そうだ。
 ただ、どうして熱田大神ではなく八劔神だったのだろう。港区内に八劔社はここだけだ。

 土古山新田に鐘淵紡績(カネボウ)が進出してきたのが昭和10年(1935年)だった。田んぼは放棄され、一時は芦原になっていたという。
 しかし、戦争が泥沼化する中で工場予定地に市内の中学生達が勤労奉仕で田んぼを作ることになり、それが戦後まで続くことになった。このあたりが宅地化されたのは戦後しばらく経ってからのことだ。
 港区の干拓新田はどこもそうなのだけど、すっかり田んぼは少なくなった。ほとんどは工場や住宅地、商店になってしまっている。
 今となってはこのあたり一帯が見渡す限り田んぼだった姿を想像することは難しい。
 風景が激変しても神社は残ったのは、災害多発地区だったことと無関係ではない。役割は変わっても、土古山の八劔社は昔も今もここで住人を見守っている。

 

作成日 2018.7.3(最終更新日 2019.7.20)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

港区唯一の八劔社、土古町の八劔社

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