朝日神社

名古屋城下の夢とうつつを知る神社

朝日神社境内の風景

読み方 あさひ-じんじゃ
所在地 名古屋市中区錦3-22-21 地図
創建年 不明
社格等 郷社・七等級社
祭神

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)

 アクセス

・地下鉄東山線/名鉄瀬戸線/バス他
栄駅」中心部から徒歩約10分
・駐車場 なし

webサイト  公式サイト
オススメ度

 思いがけない名古屋ができて 花の清須は野となろう

 1610年。名古屋城築城にともない、徳川家康はそれまで尾張の首府だった清洲城下から名古屋城下への遷都を命じた。世にいう清洲越しだ。
 その頃歌われたのが冒頭の臼挽き唄(うすひきうた)だった。仕事のときなどに歌われる民謡のようなものだ。
 住民だけでなく、民家も、店舗も、寺社も、一切合切が清洲から名古屋に移され、清洲は数年後には荒れた田畑しか残らなかったという。町の名前すらも引っ越して引き継がれることになる。
 名古屋栄のど真ん中といえる場所に鎮座する朝日神社もまた、清洲越しで移ってきた神社のひとつだ。

 移ってくる以前のことについては詳しいことが伝わっていない。創建のいきさつもよく分からない。分かっているのは、清洲城下の朝日郷にあり、秀吉の実母である朝日殿と、秀吉の異父妹で家康の正室だった朝日姫(旭姫)の氏神だったということと、伊勢の神宮の神領地(御園)だった関係でアマテラスを祀っていたということくらいだ。
 相殿に祀られている天児屋根命(アメノコヤネ)が最初からだったのかどうかは不明だ。
 移ってきてからは朝日神明宮と呼ばれていたというから、清洲の頃はただの神明宮という名称だったのかもしれない。
 今でこそ名古屋の繁華街となっている栄の広小路通も、江戸初期は名古屋城下の南端で、ここから南は寺が並ぶ以外は笹の茂った野原だった。まだ広小路はなく、堀切筋と呼ばれ、清洲の朝日村出町から移ってきたということで朝日町と名付けられた。それまでは小林村だったという。
 転機が訪れたのは50年後の1660年、万治の大火と呼ばれることになる大火事によって城下町の東半分が焼けて失くなってしまうという大惨事がきっかけだった。
 二度とそういうことが起きないようにということで、それまで3間(5.4メートル)だった堀切筋の道幅を5倍の15間(27メートル)に広げて延焼対策とした。この広い道が後に広小路(ひろこうじ)と呼ばれるようになる。
 それまで神社や寺の境内で行われてきた芝居や見世物、露天などは、広小路の通り沿いで行うことが推奨された。少しずつ通りには店が増え始め、やがて広小路は名古屋城下を代表する繁華街となっていく。
 名古屋の人間でも、栄、広小路の繁栄が朝日神社から始まっていることを知る人はあまり多くないかもしれない。大須観音萬松寺の門前町として大須が繁華街として発展していくのはもっとずっと後のことだ。
『尾張名所図会』でも「朝日神明宮」の絵ととも紹介文が書かれている。
「例祭九月十五日神楽(かぐら) 十六日湯立てあり 氏子の献燈には、羅紗・呉呂服などの水引をかけ、門外の笠鉾すこぶる華美をつくす 遠近詣人の羣集(群衆)言語にたたえり」
「広小路夜見世」という題で描かれた絵でもすごいことになっている。
 広い通りの両脇に店やら出店やら民家やらが建ち並び、広小路の通りを大勢の群衆が埋め尽くしている。
 朝日神明宮は、当時からさほど規模は大きくなかったようだけど、鳥居、門、蕃塀、拝殿、渡殿、祭文殿、本殿が一直線に並び、透塀が本殿の周りをぐるりと囲む尾張造のスタイルになっていたことが分かる。
 この頃の広小路は、繁華街といっても夜の歓楽街といったものではなく、芝居小屋で芝居を楽しんだり、夕涼みがてら親が子供の手を引いて神社に参拝した後、露天でちょっとしたものを買ったり食べたりといったものだったようだ。芸者街ができて飲み屋の町となるのは明治から昭和にかけてのことだ。
 昭和のはじめ頃までは、熱田神宮に次いで名古屋で二番目に多い参拝客が訪れたというのも、今となっては遠い昔話だ。

 天児屋命(アメノコヤネ)について少しだけ触れておくと、名古屋でアメノコヤネを主祭神として祀っている神社は少ない。一般的には春日の神とされていて、奈良の春日大社や各地の春日神社で祀られている。大須の春日神社はアメノコヤネを祀っている。
 アマテラスが天の岩戸に隠れて出てこなくなってしまったとき、太卜(ふとまに・占い)を行い、祝詞(のりと)を唱え、天太玉命(あめのふとだまのみこと)とともに鏡を差し入れてアマテラスを誘い出した神だ。
 そこから祝詞の神などとされ、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神となった。
 ニニギの天孫降臨のときに付き従い、地上に降りて祭祀の神としての性格を強めていく。
 アマテラスと相殿でアメノコヤネを祀るというパターンはあまりないのではないか。中臣氏が伊勢の神宮の祭主(他でいう大宮司)を務めていた関係があったのだろうか。清洲時代は伊勢の神宮領だったことから、祭祀なども伊勢の神宮にならったものだったという。

 明治の神仏分離令で近くの寺の中に村社として鎮座していた子守神社・児宮神社をここに移して合祀した。
 明治5年(1872年)、村社に列格。
 明治9年(1876年)、郷社に昇格するとともに朝日神社に改称。
 昭和20年(1945年)、空襲で社殿焼失。
 昭和28年(1953年)、社殿復旧造営。
 毎年8月の第3土曜・日曜に行われる広小路夏まつりは、朝日神社の祭礼から始まっている。

 宮城出身の女流歌人に原阿佐緒(はらあさお)という人がいる。
 美貌の持ち主で恋多き女だった阿佐緒は、数々の恋愛スキャンダルで世間を騒がせた。
 日本画の勉強をした後、新詩社に入って与謝野晶子に師事。『スバル』や『アララギ』で短歌を発表して女流歌人として知られる存在になっていく。
 出産、結婚、不倫、略奪婚、破局を繰り返し、将来有望とされた物理学者の石原純との不倫問題により『アララギ』を追放された。石原も東北帝国大学を辞職することになり、二人は世間から隠れるように同棲生活を始める。
 結婚するも長くは続かず、離婚後、雇われマダムとなった阿佐緒は夜の街から街へと流れ歩くことになる。東京へ出て、やがて名古屋の地にやってきて広小路に小さな店を出した。
 世に知られたスキャンダル女王の阿佐緒を一目見ようと店には連日大勢の男たちが詰めかけたという。昭和のはじめのことだ。
 名古屋にいたのはほんの数年のことで、更に西へ、大阪へと移っていった。
 そんな阿佐緒は日課のように朝日神社を参っていたという。40歳という年齢を思わせないほど美貌は衰えていなかったというから、かなり目立つ存在だったことだろう。
 その後、映画に出たり、歌手としてレコードを出したりしたものの、二度と歌壇に戻ることはなく、昭和10年、故郷の宮城に帰っていった。

 吾がために死なむと言いし男らの
 みなながらへぬおもしろきかな    原阿佐緒

 君のためなら死ねるなんて言っていた男たちはみんな長生きしてるじゃないの、面白いわねといった他愛もない歌だけど、原阿佐緒の生きざまや人となりがよく出ている。こんな歌をさらっと歌える人はそうはいない。
 石原純もまた、阿佐緒と別れたあと、妻子の元に戻っている。
 阿佐緒自身も80歳まで生きた。

 清洲越しから400年。町の浮き沈みを見つめ続け、大勢の人々の喜びや悲しみを受け止めてきた神社、それが名古屋の繁華街にひっそり佇む朝日神社だ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

雨の中の広小路夏まつり
栄広小路の今むかし展表彰式

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