思いがけない名古屋ができて 花の清須は野となろう
1610年。名古屋城(web)築城にともない、徳川家康はそれまで尾張の首府だった清須城(web)下から名古屋城下への遷都を命じた。世にいう清須越だ。 その頃歌われたのが冒頭の臼挽き唄(うすひきうた)だった。仕事のときなどに歌われる民謡のようなものだ。 住民だけでなく、2700戸の町屋や110の寺と神社3社、店も橋も、一切合切が清須から名古屋に移され、清須は数年後には荒れた田畑しか残らなかったという。町の名前すらも引っ越して引き継がれることになる。 名古屋栄のど真ん中といえる場所に鎮座する朝日神社もまた、清須越で移ってきた神社のひとつだ。
移ってくる以前の神社について詳しいことは伝わっていない。創建のいきさつもよく分からない。分かっているのは、清須城下の朝日郷(朝日村)にあり、秀吉の実母である朝日殿と、秀吉の異父妹で家康の正室だった朝日姫(旭姫)の氏神だったということ、伊勢の神宮(web)の神領地(御園)だった関係でアマテラスを祀っていたということくらいだ。 清須時代は朝日神明などと呼ばれていたという。 清須の朝日神明の旧地について『尾張徇行記』(1822年)にこんなことが書かれている。 「其跡は田をも不作、一株の大杉近き頃迄有し。一旦此杉光を攻つと土俗云しに、或る者其木の根こそ心元なけれとて、ひた堀に堀ける程に、いつしか杉は枯し、処民恐れて神木を枯し如何なる祟りか有べきなんと、議して一小祠を立、宇賀神を祀る 今の弁財天の祠是也 中島宮祠官斎藤氏是を主維すると也」 神明宮があった場所は田んぼにしても作物が育たず、そこにあった大杉が光を放つから不気味だということで土を掘って根こそぎ倒そうとしたら枯れてしまったので村人は祟りを恐れて宇賀神を祀ったらしい。この弁財天は今も残っているのだろうか。
今でこそ名古屋の繁華街となっている栄の広小路通も、江戸初期は名古屋城下の南端で、ここから南は寺が並ぶ以外は笹の茂った野原だった。まだ広小路はなく、堀切筋と呼ばれ、住人は清須の朝日村出町から移ってきたということで朝日町と名付けられた。それまでは小林村といっていた。 転機が訪れたのは50年後の1660年(万治3年)、万治の大火と呼ばれることになる大火事によって城下町の東半分が焼けて失くなってしまうという大惨事がきっかけだった。 二度とそういうことが起きないようにということで、それまで3間(5.4メートル)だった堀切筋の道幅を5倍の15間(27メートル)に広げて延焼対策とした。この広い道が後に広小路(ひろこうじ)と呼ばれるようになる。 それまで神社や寺の境内で行われていた芝居や見世物、露天などは、広小路の通り沿いで行うことが推奨された。少しずつ通りには店が増え始め、やがて広小路は名古屋城下を代表する繁華街となっていく。 名古屋の人間でも、栄、広小路の繁栄が朝日神社から始まっていることを知る人はあまり多くないかもしれない。大須観音(web)や萬松寺(web)の門前町として大須が繁華街として発展していくのはもっとずっと後のことだ。
『尾張名所図会』(1844年)でも「朝日神明宮」の絵ととも紹介文が書かれている。 「例祭九月十五日神楽(かぐら) 十六日湯立てあり 氏子の献燈には、羅紗・呉呂服などの水引をかけ、門外の笠鉾すこぶる華美をつくす 遠近詣人の羣集(ぐんしゅう)言語にたたえり」 「広小路夜見世」という題で描かれた絵でもすごいことになっている。 広い通りの両脇に店やら出店やら民家やらが建ち並び、広小路の通りを大勢の人が埋め尽くしている。 廣小路については「はなし・物まね・諸見せ物・居合抜の歯みがき賣(うり)など、常にむれ居て往来人の足をとどむ。取りわき夏月納涼の頃は、貴賤袖をつらねえ群集し、辻賣の夜店・茶店の燈火赫奕(かくえき)として、遊興に夜の更くるを知らず、實に夜陰の壮観なり」と書いている。 朝日神明宮は、当時からさほど規模は大きくなかったようだけど、鳥居、門、蕃塀、拝殿、渡殿、祭文殿、本殿が一直線に並び、透塀が本殿の周りをぐるりと囲む尾張造の様式になっていたことが分かる。 この頃の広小路は、繁華街といっても夜の歓楽街といったものではなく、芝居小屋で芝居を楽しんだり、夕涼みがてら親が子供の手を引いて神社に参拝した後、露天でちょっとしたものを買ったり食べたりといったものだったようだ。芸者街ができて飲み屋の町となるのは明治から昭和にかけてのことだ。 昭和のはじめ頃までは、熱田神宮(web)に次いで名古屋で二番目に多い参拝客が訪れたというのも、今となっては遠い昔話だ。
『尾張志』(1844年)から分かることは、ここが廣小路篠屋町と呼ばれていたこと、清須本町から移したということ、万治3年(1660年)正月だけでなく寛政6年(1794年)にも火事で焼けていること、神主が田島陸奥介尾張宿禰仲受という人物だったことなどだ。 田島氏というと熱田の神官の家なのだけど、分家か何かかもしれない。朝日神明宮家は尾張藩十社家のうちのひとつだった(東照宮、日ノ出神社、洲崎神社正・権、泥江縣神社、赤塚神社、村木町白山社、冨士浅間神社、広井浅間社、上宿山神社)。
『愛知縣神社名鑑』によると、江戸時代までは広小路神明宮といっていて、明治9年(1876年)に郷社に昇格したとき朝日神社と改称したという。 明治33年に鶴重町にあった村社子守社を境内神社にしたとする。 しかし、公式サイトの説明ではこうなっている。 「明治元年3月、明治政府は神佛判然令(神仏分離令)発令したため、当社より約二丁ほど東の寺の中に村社として鎮座されていた、子守神社・児宮神社を当神社境内に移築、遷座した。従前の総代を引き続き置き、村社としたが、同一境内に郷社・村社別々に運営していたが色々と問題があって、協議の結果 、村社を摂社にすると共に総代制度を廃止、郷社として一本化した」 子守神社・児宮神社というのは二社なのか、相殿のようなものだったのかはちょっと分からない。神明の東にあった寺(寺名は不明)にあった子守神社・児宮神社を朝日神明に移したのだけど、境内の中に郷社と村社が同居して別々の氏子がそれぞれ運営するのは問題があるということで、村社だった子守神社・児宮神社を摂社としたとして氏子も一本化したということのようだ。 アメノコヤネについての説明はないのだけど、この子守神社・児宮神社の祭神だったと考えていいだろうか。だとすると、明治以降のどこかの時点で本社に合祀したのだろう。
明治21年、宮城県に生まれた女流歌人の原阿佐緒(はらあさお)という人がいる。 美貌の持ち主で恋多き女だった阿佐緒は、数々の恋愛スキャンダルで世間を騒がせた。 日本画の勉強をした後、新詩社に入って与謝野晶子に師事。『スバル』や『アララギ』で短歌を発表して女流歌人として知られる存在になっていく。 出産、結婚、不倫、略奪婚、破局を繰り返し、将来有望とされた物理学者の石原純との不倫問題により『アララギ』を追放された。石原も東北帝国大学を辞職することになり、二人は世間から隠れるように同棲生活を始める。 結婚するも長くは続かず、離婚後、雇われマダムとなった阿佐緒は夜の街から街へと流れ歩くことになる。東京へ出て、やがて名古屋の地にやってきて広小路に小さな店を出した。 世に知られたスキャンダル女王の阿佐緒を一目見ようと店には連日大勢の男たちが詰めかけたという。昭和のはじめのことだ。 名古屋にいたのはほんの数年のことで、更に西へ、大阪へと移っていった。 そんな阿佐緒は日課のように朝日神社を参っていたという。40歳という年齢を思わせないほど美貌は衰えていなかったというから、かなり目立つ存在だったことだろう。 その後、映画に出たり、歌手としてレコードを出したりしたものの、二度と歌壇に戻ることはなく、昭和10年、故郷の宮城に帰っていった。
吾がために死なむと言いし男らの みなながらへぬおもしろきかな 原阿佐緒
君のためなら死ねるなんて言っていた男たちはみんな長生きしてるじゃないの、面白いわねといった他愛もない歌だけど、原阿佐緒の生きざまや人となりがよく出ている。こんな歌をさらっと詠める人はそうはいない。 石原純もまた、阿佐緒と別れたあと、妻子の元に戻っている。 阿佐緒自身は80歳まで生きた。
昭和20年の空襲で名古屋城は焼け落ち、城下は焼け野原となった。朝日神社も焼けている。 今昔マップの昭和22年(1947年)を見ると、このあたり一帯は真っ白になっている。 それでも戦後に復興して、朝日神社も昭和29年には復旧した。 清須越から400年。名古屋城下の浮き沈みを見つめ続け、大勢の人々の喜びや悲しみを受け止めてきた神社、それが名古屋の繁華街にひっそり佇む朝日神社だ。
作成日 2017.3.14(最終更新日 2019.9.6)
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