南は東起村、東は中島新田という位置関係の法華村だった場所だ。 現在の法華は「ほっけ」と読ませるのだけど、法華村は「ほうけ」と読んでいたようだ。法花村とも表記した。 法華村の由来について津田正生は『尾張国地名考』にこう書いている。 「【近藤利昌曰】村の内に法華堂あり此故にいふなるべし」 『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。 「農家七分通り程は日蓮宗門の徒なり、されば日蓮宗の寺両寺ありて村中に神祠なし、法華村と名でくるも宜なり」 村に神社はなく、日蓮宗の寺がふたつあって、村人の7割が日蓮宗だから法華村といったというのだ。 あり得ない話ではないけどかなり珍しいパターンの村名だ。 ふたつの寺は妙伝寺(地図)と長伝寺(地図)で、現存している。長伝寺の創建は1662年、妙伝寺はかなり古いとされる。
村に神祠がないというのは非常に気になるところだ。そんな村もめったになかった。 『尾張志』(1844年)にも法華村の神社は載っていないことから、江戸時代後期まで神社はなかったということだ。 しかし、『愛知縣神社名鑑』はこの神明社についてこう書いている。 「社蔵の棟札に寛永十六年(1639)に創建とあり、文政十一年(1828)に修復する。村内安全、五穀豊穣の神として尊崇あつく、明治5年7月村社に列格した。明治37年社殿を改修、昭和3年社殿を改修昭和48年本殿を造営。昭和60年拝殿、神楽殿を修復する」 1639年(寛永16年)の棟札を所蔵しているというなら、少なくともその年にはこの神社があったということだ。だとすると、この神社は法華村ではないところに創建されたということになる。それはどこだったのか。 『なごやの町名』は、「当時、村には神社がなかったが、その後新田開発の産土神として天照皇大神を祭神とする神明社が法華一丁目の地に造られた」と書いている。 これは1639年創建という話と矛盾する。1639年創建が間違いであるとすれば、この神社の創建は1844年の『尾張志』以降ということか。 明治5年に村社に列格しているということは、そのときまでには法華村にあったことは間違いない。 今昔マップの変遷を辿ると、明治、大正時代に鳥居マークはなく、昭和7年(1932年)の地図で初めて鳥居マークが描かれる。 それにしても、修造の記録が残っているのに遷座などの記録が伝わっていないのは解せないことだ。
法華経(ほけきょう/ほっけきょう)の正式名は『妙法蓮華経』だ。 サンスクリット《サッダルマプンダリーカ・スートラ》の訳で、紀元前後にインドで成立したと考えられている。 日本では日蓮宗と天台宗の中心聖典となった。 606年に聖徳太子が法華経を講じたと『日本書紀』は書いている。 法華経の教えというのは、皆この世に生を受けたものは素晴らしい能力を持っていて、正しい心で生きて仏になりましょうといったものだと、私は解釈している。 その教えというのは、仏教でも神道でも本質的には変わらないものだ。だから分けて考える必要もなく、日蓮宗の信者が神明社に参拝しても不自然ではないし、その逆ももちろん問題ない。
作成日 2017.10.26(最終更新日 2019.7.1)
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