南側の入り口(地図)から入り、新池の脇を通って八龍湿地を抜けた先の奥まった場所に鎮座する龍神さん。雑木林の中を歩いて10分くらいだろうか。 しかし、北側の道路に面した入り口(地図)から入ると1分もかからずあっけなく辿り着いてしまう。楽に行くなら北から、雰囲気を味わうなら南から行くのがいい。
神社がある場所は丘陵地帯の湿地帯で、このあたりに人家が建ったのはそれほど昔のことではない。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)の地図を見ても、民家が建つような場所ではなかったことが分かる。 少し南に大森村の集落があるのだけど、神社があるあたりまで大森村の村域だったかどうか。 現在神社がある場所に「○の中に点と89.8?」と書き込まれている。これは標高だろうか。マピオンで見ると海抜83メートルを示している場所だ。 大きな変化があったのは、すぐ西の土地を大正時代末に開発したときだ。山林を切り開いて道路を作り、翠松園(すいしょうえん)と称する分譲住宅地として売り出した。 大森八龍に民家が建つようになったのはそれ以降のことと思われる。八龍神社が建てられたのも大正末か昭和初期あたりだろうか。 今昔マップでいうと、鳥居のマークが表れるのは、1976年(昭和51年)の地図からだ。 ちなみに、神社南に金城学院大学が建ったのは1949年(昭和24年)のことだ。
土地としての歴史は古く、志段味地区には縄文時代やそれ以前から人が暮らしていた痕跡があり、東谷山から志段味、小幡、守山にかけて多くの古墳が築かれた。 八龍神社も古墳の上に乗っているといわれている。昭和初期に須恵器数点が見つかっている。ただ、詳しい調査は行われていないため詳細は分からない。 神社が建つ前から古墳上に祠があったという話もあり、それを神社の創祀とするとかなりさかのぼるかもしれない。 『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)にこの神社を思わせるような神社は載っていない。
それにしても、いつ誰が何故ここに八龍を祀ったのだろう。そもそも最初から八龍だったのかどうか。 この八龍が八大龍王のことだとすると、法華経関連とも考えられる。あるいは雨乞いのために龍神を祀ったのか。 このあたりは溜め池が多いところで、それは水に困っていたからに他ならない。北を流れる庄内川は低い位置にあり、南の矢田川からは遠い。丘陵地で森林で湿地帯となれば農作物を育てるのは難しい。 大森八龍の地名は、この八龍神社から来ているのだろう。大森は文字通り大きな森があったことが由来とされる。 境内には森眞龍神と刻まれた社号標と社がある。
神社南の八龍湿地には稀少な植物や生物が生息しており、保護地区になっている。木道が作られ、フェンスに囲まれているので、普段は中に入ることができない。毎月第一日曜日の午前9時から観察会が開かれている。 八龍神社に参拝に訪れた際は、八龍緑地も歩くことをオススメしたい。
作成日 2018.5.24(最終更新日 2019.1.25)
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