矢田六所神社

他の六所社とは違う意味で分からない六所社

矢田六所神社鳥居と境内

読み方 やだ-ろくしょ-じんじゃ
所在地 名古屋市東区矢田南1-6-37 地図
創建年 伝・建久年間(1190年-1199年/鎌倉時代前期)
社格等 十三等級
祭神

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
鵜茅葺不合尊(うがやぶきあえずのみこと)

アクセス

・JR中央本線「大曽根駅」から徒歩約20分
・地下鉄名城線「ナゴヤドーム前矢田駅」から約15分
・駐車場 あり(無料)

webサイト  
オススメ度

 名古屋北部にだけまとまって点在する六所社の中では異質の六所社だ。
 祭神がイザナギ、イザナミの二柱だけで、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコは入っていない。そして、ウガヤフキアエズが入っている。
 それにしても、ここも正体がよく分からない神社だ。

 鎌倉時代前期の1190年-99年に、山田重忠がカミムスビ(神皇産霊神)を祀る六所社を創建したのが始まりという。
 はっきり言って全然意味が分からないし、理解不能だ。この話が本当だとはとても信じられない。どこから出てきた話なのか。
 山田重忠は尾張国山田荘出身の武人で、木曾義仲とととに平家と戦って鎌倉幕府の設立に貢献した後、幕府から山田荘の地頭に任じられて御家人になった人物だ。
 承久の乱(1221年)では後鳥羽上皇側について幕府側と戦い命を落とすことになるのだけど、そのときはすでに56歳だったといい、長らく尾張国山田荘で地頭としての生活を送っていた。
 信心深い人で、その間にいくつかの寺を建てたりしているから神社のひとつくらい建てたとしても不思議ではないのだけど、どうしてそれがカミムスビだったのかが分からない。それと、何故、神社の名前が六所社だったのかも。
 カミムスビは天地開びゃくのときに、天之御中主神(アメノミナカヌシ)、高皇産霊神(タカミムスビ)に続いて高天原に現れた造化の三神のうちの一柱で、一般的に女神と考えられている。
 大国主命(オオクニヌシ)の命を二度も救う活躍を見せるも、単独でカミムスビを祀っている神社は多くない。
 六所社がある場所はかつて暗がりの森と呼ばれ、人々が入っていくことを恐れるほど鬱蒼とした森だったといい、森そのものが御神体だったともいう。何故、重忠はそこにカミムスビを祀る神社を建てたのか。それは誰のための神社だったのか。
 山田重忠という人は武勇に優れ、人望も厚く、教養もある立派な人物だったと伝わっている。それにしても、重忠とカミムスビはつながらない。
 時代背景を考えても、初めて武士が政治の実権を握った鎌倉時代初期に、あえてカミムスビという古い神を持ち出してくる理由が見当たらない。カミムスビは創造を神格化した存在で、男神のタカミムスビとセットで結びの神ともされる。武家のための神ではないし、庶民のための神でもない。
 六所社というのも、どういうことなのか。六柱の神でもないし、六所明神と称された陸奥国(宮城県)一宮の鹽竈神社(しおがまじんじゃ)との関連も見られない。
 江戸時代に編さんされた『寛文村々覚書』などでは六所大明神となっている。
 イザナギ、イザナミが祭神になったのは、明治の神仏分離令以降のことだろう。
 途中のどこかで加賀国の白山比め神社(しらやまひめじんじゃ)から勧請したという話もあるけど、はっきりしたことは分からない。

 もうひとつとても気になるのが、祭神に鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)が入っていることだ。
 九州の宮崎にゆかりの深い神で、この地方ではほとんど馴染みがない。名古屋でこの神を祀っている神社はごく少ないと思われる。
 神武天皇の父ということで名を残したものの、『古事記』、『日本書紀』ではエピソードが語られることはない。
『古事記』では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ)、『日本書紀』では彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)という長い名前になっている。
 鵜茅葺不合の名前は、母親のトヨタマヒメ(豊玉姫)が、鵜(う)の羽で産屋の屋根を葺(ふ)いて準備してている途中に産まれてきたことから名付けられたとされる。ただ、武とか建という文字が入っているところをみると、それだけ勇ましくて元気だったということを言いたかったのかもしれない。
 タマヨリヒメはオオワタツミ(大綿津見神)の娘ということで海の神だ。
 山幸彦(彦火火出見尊)が兄に借りた釣り針を取り戻すべく海の中の宮廷を訪れた際に出会って結ばれた。ただ、出産のときに見てはいけないというタマヨリヒメとの約束を破った山幸彦は、八尋(15メートル)の巨大な鰐(ワニ)に変身して出産しているとこを目撃してしまう。
 それを恥じたタマヨリヒメは海の宮廷に帰っていってしまい、代わりに妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を寄越した。タマヨリヒメが育てたのがウガヤフキアエズで、ふたりはのちに結婚して4人の子が生まれる。そのうちの末っ子が若御毛沼命で、のちに神武天皇(神倭伊波礼琵古命/かむやまといはれびこ)となったというお話だ。
 ウガヤフキアエズは西洲の宮(にしのしまのみや)で崩御して、日向(ひむか)の吾平山(あひらのやま)の上に葬られたとされる。
 ウガヤフキアエズを祀る神社としては、宮崎県の鵜戸神宮(タマヨリヒメが産屋を建てたとされる場所)や宮崎神宮などがある。
 そんなウガヤフキアエズを、尾張国の六所社に、いつ誰が祀ったのか、というのが、矢田六所神社の最大の謎と言えるかもしれない。経緯がまったく読めない。

 この神社は古くから子安の宮、安産の守り神としてよく知られていたという。
 こんなエピソードが伝わっている。
 あととき、神社がある森から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、不思議に思った村人が見にいってみると、高貴な姿をした夫婦が産まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。どうやら森の清水を産湯に使っていたらしい。
 それから七日後、夫婦は忽然と姿を消してしまう。
 村ではその話で持ちきりになり、あれはきっとマレビト(稀人/客人)—–つまり外部からやってきた霊的な存在、もしくは神—–に違いないということになった。
 その話は村を越えて伝わり、清水を求めて遠くからも人が訪れるようになり、六所社は安産祈願の神社とされるようになったという。
 夫婦が消えたのが2月26日だったということで、六所神社ではこの日を大祭の日としている。
 年に一度、この日だけ売られるカッチン玉という縁起物のお守りがある。
 竹の先に白・赤・青・黄の飴を丸く固めたもので、子供のへその緒をかたどったものだとされる。
 別の説では、暗がりの森に入っていくときに村人が手に持ったたいまつをかたどったものだともいう。

  以上が集めることができたデータだ。ここからこの六所神社がどういう神社なのかを推理して言い当てることができるだろうか。
 六所、六所明神、鎌倉時代初期、山田重忠、カミムスビ、タマヨリヒメ、ウガヤフキアエズ、イザナギ、イザナミ、白山信仰、マレビト伝説、安産の守り神……。
 上手く結びつけられる気がまったくしない。
 分かっていることがあるとすれば、上飯田六所宮下飯田六所社などの他の六所社とは系統が違うということだ。もともとの祭神を六所の神が上書きしたという印象は受けない。
 それでもやっぱり六所社は分からないというのが結論ということになる。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

矢田の六所神社はどうして六所なのか

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