名古屋北部にだけまとまって点在する六所社のうちの1社。その中では異質の六所社だ。 祭神がイザナギ、イザナミの二柱だけで、他の六所社のようにアマテラス、ツクヨミ、スサノオ、ヒルコは入っていない。そして、ウガヤフキアエズが入っている。 それにしても、ここも正体がよく分からない神社だ。
鎌倉時代前期の1190-99年に、山田重忠がカミムスビ(神皇産霊神)を祀る六所社を創建したのが始まりという話がある。 信じる信じない以前にまったく理解不能で、そもそもどこから出てきた話なのか。 山田重忠は尾張国山田荘出身の源氏の武士で、木曾義仲とととに平家と戦って鎌倉幕府の設立に貢献した後、幕府から山田荘の地頭に任じられて御家人になった人物だ。 承久の乱(1221年)では後鳥羽上皇側について幕府側と戦い命を落とすことになるのだけど、長らく尾張国山田荘で地頭としての生活を送っていた。 信心深い人で、その間にいくつかの寺を建てたりしているから神社のひとつくらい建てたとしても不思議ではないのだけど、どうしてそれがカミムスビだったのかが分からない。それと、何故、神社の名前が六所社だったのか。 カミムスビは天地開びゃくのときに、天之御中主神(アメノミナカヌシ)、高皇産霊神(タカミムスビ)に続いて高天原に現れた造化の三神のうちの一柱で、一般的に女神と考えられている。 日本神話の中では大国主命(オオクニヌシ)の命を二度も救う活躍を見せるも、単独でカミムスビを祀っている神社は多くない。 六所社がある場所はかつて暗がりの森と呼ばれ、人々が入っていくことを恐れるほど鬱蒼とした森だったといい、森そのものが御神体だったともいう。何故、重忠はそこにカミムスビを祀る神社を建てたのか。それは誰のための神社だったのか。 山田重忠という人は武勇に優れ、人望も厚く、教養もある立派な人物だったと伝わっている。それにしても、重忠とカミムスビはつながらない。 時代背景を考えても、初めて武士が政治の実権を握った鎌倉時代初期に、あえてカミムスビを持ち出してくる理由が見当たらない。カミムスビは創造を神格化した存在で、男神のタカミムスビとセットで結びの神ともされる。武家のための神ではないし、庶民のための神でもない。 六所社というのも、どういうことなのか。六柱の神でもないし、六所明神と称された陸奥国(宮城県)一宮の鹽竈神社(しおがまじんじゃ/web)との関連も見られない。 江戸時代に編さんされた『寛文村々覚書』などでは六所大明神となっている。 イザナギ・イザナミが祭神になったのは、明治の神仏分離令以降のことだろうけど、それにしても何故、イザナギ・イザナミだったのか。 途中のどこかで加賀国の白山比め神社(しらやまひめじんじゃ/web)から勧請したという話もあるけど、はっきりしたことは分からない。
もうひとつとても気になるのが、祭神に鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)が入っていることだ。 九州の宮崎にゆかりの深い神で、この地方ではあまり馴染みがない。 神武天皇の父ということで名を残したものの、『古事記』、『日本書紀』ではエピソードが語られることはない。 『古事記』では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ)、『日本書紀』では彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)という長い名前になっている。 鵜茅葺不合の名前は、母親のトヨタマヒメ(豊玉姫)が、鵜(う)の羽で産屋の屋根を葺(ふ)いて準備してている途中に産まれてきたことから名付けられたとされる。ただ、武とか建という文字が入っているところをみると、それだけ勇ましくて元気だったということを言いたかったのかもしれない。 タマヨリヒメはオオワタツミ(大綿津見神)の娘ということで海の神だ。 山幸彦(彦火火出見尊)が兄に借りた釣り針を取り戻すべく海の中の宮廷を訪れた際に出会って結ばれた。ただ、出産のときに見てはいけないというタマヨリヒメとの約束を破った山幸彦は、八尋(15メートル)の巨大な鰐(ワニ)に変身して出産しているとこを目撃してしまう。 その姿を見られたことを恥じたタマヨリヒメは海の宮廷に帰っていってしまい、代わりに妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を寄越した。タマヨリヒメが育てたのがウガヤフキアエズで、ふたりはのちに結婚して4人の子が生まれる。そのうちの末っ子が若御毛沼命で、のちに神武天皇(神倭伊波礼琵古命/かむやまといはれびこ)となったというお話だ。 ウガヤフキアエズは西洲の宮(にしのしまのみや)で崩御して、日向(ひむか)の吾平山(あひらのやま)の上に葬られたとされる。 ウガヤフキアエズを祀る神社としては、宮崎県の鵜戸神宮(タマヨリヒメが産屋を建てたとされる場所/web)や宮崎神宮(web)などがある。 そんなウガヤフキアエズを、尾張国の六所社に、いつ誰が祀ったのかというのが、矢田六所神社の最大の謎といえるかもしれない。経緯がまったく読めない。
江戸時代の矢田村の項を見るとそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 六社大明神 社内六反歩 前々除 瀬古村祢宜 吉太夫持分 白山 神明 社内年貢地 当所 漸東寺持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「白山神明祠界内年貢地」 「六社大明神祠界内六反前々除」
『尾張志』(1844年) 「六所社 白山社 神明社 シャグジノ社」
六所大明神または六所社と称していて前々除となっているから1608年の備前検地以前に建てられたことは間違いなさそうだ。 ここからは創建についての手がかりは得られない。 山田重忠が創建したなどいう話も出てこない。 矢田村に属してはいたものの、矢田村の集落からはずっと外れた南にあった。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると集落と神社の位置関係が分かる。山口街道沿いにあった町屋の北の外れといった方が適当かもしれない。 鎌倉時代初期にこのあたりがどうなっていたかを想像するのは難しいのだけど、どうしてこの場所だったのかもよく分からない。那古野城築城以前にこの場所に集落があったかどうか。山田重忠が本拠としていたとされる山田村からも離れている。
『愛知縣神社名鑑』はこんなことを書いている。 「古くから子安の宮、安産の守り神として霊験あり、遠近より祈願者が多い。特に2月26日の大祭りはカッチン玉祭りと称して有名である」 こんなエピソードが伝わっている。 あるとき、神社の森から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、不思議に思った村人が見にいってみると、高貴な姿をした夫婦が産まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。どうやら森の清水を産湯に使っていたらしい。 しばらくこの地にとどまっていた夫婦は、七日後に忽然と姿を消してしまった。 村ではその話で持ちきりになり、あれはきっとマレビト(稀人/客人)—–つまり外部からやってきた霊的な存在、もしくは神—–に違いないということになった。 その話は村を越えて伝わり、清水を求めて遠くからも人が訪れるようになり、六所社は安産祈願の神社とされるようになったという。 夫婦が消えたのが2月26日だったということで、六所神社ではこの日を大祭の日としている。 六所明神といえば鹽竈神社のかつての呼び方で、鹽竈神社では塩土老翁(シオツチノオジ)を祀っていて安産の神ともされているから六所社でもシオツチノオジを祀ってよさそうなものだけどそうしてない。これもちょっと不思議な点のひとつだ。 年に一度、大祭の日にだけ売られる縁起物のカッチン玉は、竹の先に白・赤・青・黄の飴を丸く固めたもので、子供のへその緒をかたどったものとされる。 別の説では、暗がりの森に入っていくときに村人が手に持ったたいまつをかたどったものだともいう。
六所明神、山田重忠、カミムスビ、イザナギ、イザナミ、ウガヤフキアエズ、白山信仰、マレビト伝説、安産の守り神。 これらの要素がどう結びつくか分からないのだけど、それぞれ何らかの史実を反映している可能性がある。別の話が変につながってこんがらがっているようにも思える。 いつか何かのきっかけでバラバラのピースが納まるところに納まって、なるほどそういうことかと理解できる日が来るかもしれない。それまで六所明神は脇に置いておくことにする。
作成日 2017.4.4(最終更新日 2019.2.19)
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