八幡社(戸田)

戸田の山車祭発祥の一之割

戸田八幡社

読み方 はちまん-しゃ(とだ)
所在地 名古屋市中川区戸田1丁目1107番 地図
創建年 不明
社格等 指定村社・十二等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス

・JR関西本線「春田駅」から徒歩約11分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 戸田五社のうち、一之割の氏神に当たる八幡社。
 このあたりは平安時代後期の11世紀末に富田荘(とみたのしょう)という荘園があったところだ。中川区富田町を中心に、海部郡蟹江町、七宝町、大治町、甚目寺町あたりの広大なもので、近衛家が領した後、北条家、鎌倉円覚寺などが所有していた。
 戸田川や福田川など、大小の川が流れ、肥沃な土地だったことから良質な米が穫れた。江戸時代には尾張藩が戸田米というブランド米として全国に売り出し、日本一の米と評判を取ったこともある。
 戸田村を一之割から五之割までの5つに分けたのは、良質な米を収穫する農民たちの力を分散させるためだったともいわれる。
 それぞれの割に氏神を祀る神社が建てられ、山車祭りで競い合った。

 戸田の八幡社の創建がいつだったのか、はっきりしたことは伝わっていない。鎌倉時代という話もある。
 荘園が成立した1100年頃(康和年間)、平季政が富田荘の荘司となり館を建てたのが後に戸田城として発展する。それは八幡社のすぐ南西あたりにあったというから、戸田城の城主が八幡社を創建した可能性はある。
 森信義が戸田荘の地頭職についたときに戸田氏を名乗るようになり、その支配は1469年に戸田宗光が上野上村城(愛知県豊田市)に移るまで続いた。
 その後、1475年に戸田氏は三河の田原城へ移り、1547年、宗光(宗光のひ孫、後に康光)の代に竹千代事件を引き起こすことになる。今川家に送られるはずだった竹千代(後の家康)を戸田宗光が奪って尾張に売り飛ばしてしまったというやつだ(竹千代事件に関しては熱田区の伝馬熱田社のところで書いた)。
 怒った今川義元によって攻められ、戸田氏は滅亡寸前まで追い込まれることになる。しかし、一部は生き残り、大垣城城主の戸田家などとして存続することになる。

『愛知縣神社名鑑』は「創建は明かではない」としている。
『尾張志』は、
「八幡社 天神社 白山社 神明社 鈴宮社 五社共に戸田村にあり」と書き、
『尾張徇行記』は以下の通り。
「八幡祠 天神祠 白山祠 神明祠 鈴宮 界内年貢地、覚書ニ須成村三郎太夫持分」
 江戸時代を通じてこの五社の顔ぶれは変わっていない。それが今も変わらずそのまま残っているのはけっこうすごいことだ。

  5つの神社で山車祭りが行われるようになったのは江戸時代中期のこととされる。
 近くにある西照寺の記録「西照寺累代行状年譜」に、元禄15年(1702年)に八幡社の祭りとして始まったとある(記録はその後の火事で焼失)。
 元禄15年といえば、赤穂浪士の討ち入り事件があった年だ。
 5代将軍綱吉の時代は元禄文化が花開いたときで、都市だけでなく地方でも文化、芸術、商業などが発展し、江戸時代で一番華やかで平和な時代だったといっていいかもしれない。
 八幡社に続いて他の4つの神社もそれぞれ山車を持つようになり、山車祭りが行われた。
 尾張の山車祭りといえば、からくり人形がつきもので、その伝統は今も続いている。
 それぞれの山車やからくり人形に個性があるのも戸田の山車祭りの特徴となっている。そこにも競い合った歴史が見てとれる。
 山車やからくり人形は江戸時代に作られたもので、名古屋市無形民俗文化財に指定されている。戸田まつりも名古屋市無形民俗文化財指定となっている。
 戸田まつりが始まって300年目に当たる2002年には、一之割から五之割までの山車揃えが行われ、それを機に4年に一度の本祭が開催されることになった。
 通常の年は、それぞれの神社が地区を練り歩く。
 毎年10月の第一土曜日・日曜日に行われている(2017年の今年は10月7日・8日)。
 次回の本祭は来年2018年に開催される予定となっている。

 上の写真を見ても分かるように、この神社には鳥居がない。これだけ大きな神社で鳥居がないところは珍しいなと思ったのだけど、山車の出入りのために鳥居が置けないからかもしれない。
 出入り口はここしかなく、通常の場所に通常サイズの鳥居を建ててしまうと、山車が出せなくなる。写真右奥に見えているのが山車蔵だ。
 境内に大きな柳の木があって、それが印象的だった。名古屋の神社で柳の木があるところはあまりない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

鳥居より山車が大事、戸田八幡社

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