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日吉神社(上社)


上社村の歴史がぎゅっと凝縮している



上社日吉神社

読み方ひよし-じんじゃ(かみやしろ)
所在地名古屋市名東区上社2丁目45-1 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・六等級
祭神大山咋神(おおやまくいのかみ)
大己貴神(おおなむちのかみ)
罔象女神(みつはのめのかみ)
アクセス地下鉄東山線「上社駅」から徒歩約5分
駐車場 あり(東側車止め前スペース)
その他例祭 10月15日
オススメ度

 名古屋市内に日吉神社は2社しかない。ひとつは中川区吉津の日吉神社で、もうひとつがここ名東区上社の日吉神社だ。
 もともとは神仏習合の山王権現を祀る山王社だった。山王権現と比叡山、天台宗などの関係と歴史については吉津の日吉神社のページに書いた。
 日吉神社の総本社は、滋賀県大津市坂本にある日吉大社(web)だ。山王系の神社ということでいうと東京赤坂の日枝神社(web)がよく知られている。



 上社の日吉神社の創建についてははっきりしない。
『愛知縣神社名鑑』は「社蔵の棟札に文明三年(1471)八月山王権現壱宇建立とあり、元禄七年(1694)五月上社村覚書に氏神山王権現の森、村の北西に当り道のり三町、森ノ広さ東西四十間、南北十二間と記るす」とある。
 しかし、この文明三年(1471年)は天明三歳(天明三年)の間違いだという。天明3年なら江戸時代中期の1783年だ。どうやら神社本庁への届け出のときに間違えたらしい。
 社蔵する一番古い時代の棟札は寛永十七年のものだという。それは江戸時代前期の1640年に当たる。
 ではこれが創建年かというとそうとはいえない。『寛文村々覚書』(1670年頃)に山王は前々除とあり、これは1608年の備前検地のときにはすでに除地となっていたことを意味する。つまり、江戸時代以前からあったと考えられる。
 上社村には江戸時代を通じて山王、貴船、富士社があった。その中で山王が上社村の氏神だった。なので、上社村ができた当初から山王があったのではないかと思う。
 もともと社郷があり、室町時代に上社村、下社村、一色村に分かれたとされる。上社村の神社だけが前々除になっていて、下社村と一色村の神社は年貢地となっていることからすると、社郷の元郷は上社村といえるだろうか。
 そのあたりの経緯は記録に残っておらず、はっきりしたことは分からない。
 社郷の由来や、三村にはそれぞれ貴船社があったということは、貴船社(貴船)貴船社(一社)のページに書いた。



 日吉(ひよし)というと秀吉を思い浮かべる人も少なくないと思う。秀吉は幼名を日吉丸といった。故郷の中村で母親のなかが日吉権現に日参して男子を授かることを願ってそれが叶ったため日吉丸と名付けたとされる。そこは現在日之宮神社となっている。
 秀吉の猿というあだ名は日吉権現(山王権現)からきていたかもしれない。山王権現の神の使いは猿だからだ。
 信長の比叡山焼き討ちで焼失した日吉大社を再建したのは秀吉だった。
 そいった縁を考えると、名古屋にももっと山王があってもよさそうなのにどうしてこんなに少ないのだろう。山神は多かったのに山王はあまりなかった。



 日吉神社というと山王鳥居がシンボルとなっている。笠木の上に三角形の破風飾りがついたものだ。中川区吉津の日吉神社も山王鳥居が建っている。
 上社の日吉神社は西入口が山王鳥居、南入口が明神鳥居で、二の鳥居は朱塗りの両部鳥居という、ちょっと変わった構成になっている。どうして正面鳥居を山王鳥居にしなったのだろう。
 両部鳥居の両部は密教の金胎両部(金剛・胎蔵)のことで、神仏習合の名残ともいえるのだけど、あえて日吉社で両部鳥居を採用したのは何か意味があったのだろうか。
 両部鳥居の神社としては、厳島神社(web)、氣比神宮(web)、廣瀬大社(web)、龍田大社(web)、熊野速玉大社(web)などがある。



 山王社があったのは、上社村の外れの丘の上だった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、集落と神社の位置関係が分かる。
 集落があったのは今の上社3丁目から社が丘1丁目、2丁目にかけてで、地下鉄や高速道路の高架があるあたりと59号線が通るあたりの平地に田畑を作っていた。上社小学校の敷地は灌漑用の溜め池だったことも見てとれる。
 山の神である山王を丘の上に祀ったのは自然なことだ。山の神は春になると里に下りてきて田の神になり、秋の収穫を終えると山に帰っていくと考えられていた。
 集落では水の神である貴船明神と富士を祀っていた。この二社についても分かっていることはほとんどないものの、前々除となっていることからすると江戸時代以前の創建ということになるだろう。
 貴船社は明治42年に日吉社の本社に合祀された。祭神に罔象女神(ミツハノメ)が入っているのはそのためだ。旧地の住所は字八郎84番地というのだけど、正確な位置は分からない。
 本社祭神の大山咋神(オオヤマクイ)、大己貴神(オオナムチ)は日吉大社にならった形だ。
 境内社の金刀比羅社は文化10年(1813年)に勧請されたものだ。
 御嶽社は慶応元年(1865年)に上社村の御嶽信者が勧請したという。
 大山祇社は明治11年(1878年)に境内に移された。
 上社3にある津島社(上社)はこの日吉神社の境外社となっている。
 その他、二十三夜の月待塔碑や鍬を納めた鍬神社もあり、上社村にあった神社などがすべてこの日吉神社に集められている。
 ここは上社村の歴史をぎゅっと凝縮したようなところで、名東区を代表する神社といっていいと思う。




作成日 2018.1.16(最終更新日 2023.1.4)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

上社の日吉神社は名東区を代表する神社だと思う

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