若宮八幡社(星﨑)

江戸中期に誰が仁徳天皇を祀ったのか

星﨑若宮八幡社

読み方 わかみや-はちまん-しゃ
所在地 名古屋市南区星崎町字前田333 地図
創建年 伝・宝暦年間(1751年-1763年/江戸時代中期)
社格等  村社・十五等級
祭神

大鷦鷯尊(おおささぎのみこと/仁徳天皇)

アクセス

・名鉄名古屋本線「本星﨑駅」から徒歩約17分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 一般的に若宮八幡(わかみやはちまん)というと、八幡神である応神天皇の息子、仁徳天皇を祀っている。宇佐神宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮などにある若宮から勧請して建てたところが多い。
 名古屋には名古屋総鎮守の若宮八幡社がある。この若宮八幡社もまたよく分からない神社で謎が多い。
 天武天皇時代(在位673年-686年)創建とも、文武天皇時代(在位701年-704年)創建ともいわれる古い神社でありながら『延喜式』には載っていない。一説では、熱田神宮摂社になっている孫若御子神社が若宮八幡社のことではないかともいう(「神名帳」では名神大となっている)。
 南区星﨑にある若宮八幡社はどこから勧請されたものなのか。尾張国外なのか、尾張国の若宮八幡だったのか。
『愛知縣神社名鑑』に、「創建は明かではないが、口伝によれば宝暦年間(1751-1763年)荒井村の鎮守の神として奉斎したという」とある。
『尾張志』では、「若宮八幡社 荒井村にあり」とあっさり紹介されている。
 江戸時代中期というと、時代的には新しい。大坂の陣から数えても戦がなくなって150年も経つこの時期に、八幡社を創建したのはどんな意図だったのだろう。八幡ではなく若宮八幡であったというのも理由があったはずだ。その当時の人たちの感覚や常識といったものが大きな意味を持つ。

 祭神は仁徳天皇ではなく、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)としている。
 これは死後に付けられた和風諡号(わふうしごう)で、仁徳が漢風刺号(かんふうしごう)になる。仁徳天皇の諱(いみな/実名)は不明とされる。
 大鷦鷯尊は『日本書紀』での表記で、『古事記』では大雀命としている。
 鷦鷯はミソサザイのことだ。日本には年間を通じて生息しているのだけど、野鳥好きの人でなければ姿を見たという人は少ないと思う。全身茶色の非常に小さい鳥だ。大雀といい、大鷦鷯といい、小さな鳥に大を付けた諡号の意図はなんだったのだろう。
 漢風刺号の仁徳は文字通り仁と徳があった天皇という大いに称える名称だ。
 大仙古墳とも呼ばれる仁徳天皇陵は墳丘の長さが486メートルという国内最大の規模を誇る。
 それほど偉大な天皇とされながら、私たちは仁徳天皇について何を知っているだろう。どんな功績を挙げた天皇かを即答できる人は少ないはずだ。
 父の応神天皇が崩御した後、皇太子だった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と皇位を譲り合ったとされる。大鷦鷯尊(仁徳天皇)から見て菟道稚郎子は異母弟で、応神天皇が特にかわいがって皇太子に立てた。しかし、譲り合って互いに皇位に付かなかったため、3年間も天皇が空位になったという。
『古事記』では菟道稚郎子が早世したとし、『日本書紀』では大鷦鷯尊に譲るために自殺したとある。
 仁徳天皇は大坂難波に都を置き、民のための善政を敷いたとされる。
 尾張国と仁徳天皇の関わりとしては、尾治針名根連命(オハリハリナネ)が仁徳天皇時代の大臣だったとされる。平針の針名神社や犬山の針綱神社で祀られている祭神だ。
 オハリハリナネの父が尾綱根命(オツナネ)で、その父が建稲種命(タケイナダネ)、その父が乎止与命(オトヨ)という流れなので、熱田神宮ともつながっていく。
 年代でいうと、仁徳天皇は300年代後半から400年代前半の天皇ということになるだろうか。ただ、大山古墳の築造時期は5世紀前半から中頃とされているから、実際はもう少し後かもしれない。
 ちなみに、大山古墳を古代の工法で築造した場合、働き手を1日500人から1850人として完成まで15年8ヶ月かかるという試算を大林組が出したことがある。
 尾張国の古墳事情でいうと、大型の前方後円墳が立て続けに造られるようになったのが5世紀後半から6世紀初頭にかけてなので、中央における尾張氏の力が最高潮に達するのはその時期と考えられている。

 さて、ここまで考えてきて、星﨑の若宮八幡社とは何なのかということになる。江戸時代中期に、一体誰が仁徳天皇を祀る神社を建てようと思いついたのか。それは本当に仁徳天皇を祀る神社だったのか。尾張国外から勧請したのか、国内の若宮八幡社からだったのか、という問いに再び戻る。もしくは勧請ではなく新規だったのか。
『南区の神社を巡る』によると、常夜灯も寄進している永井家の氏神か、西来寺の鎮守だったかもしれないという。
 江戸期における神社創建というものがどういうものだったのかがよく分からない。どの程度勝手にというか自由に建てることができたのだろう。たとえば突然、ある村人が村に神社を建てようと思いつく。村長に相談して、オラ応神天皇が好きだから若宮さん建てる、と宣言してそれが許されただろうか。きっと許されない。きちんと話を通すべきところに通して、手続きを踏まないと、そう簡単に神社は建てられなかったのだろう。たとえ自宅内だったとしても。
 村長クラスやもっと上の人間が藩に頼めばお許しが出たのだろうか。この時代の神社というものは一体誰のものだったのか。
 江戸中期に荒井村に建てられた若宮八幡社は大鷦鷯尊を祀っている。結局のところ、分かっていることはそれくらいしかない。
 住所は星崎町字前田から町名変更で元鳴尾町432になったようだ。エリアとしては星﨑地区だろうから、神社名は若宮八幡社(星﨑)としておく。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

南区の若宮八幡社は星﨑か鳴尾か

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