現住所は元鳴尾町で、その前は星崎町字前田だった。どうして「元」鳴尾町かというと、明治時代の一時期、ここが鳴尾村だったからだ。しかし、もともと鳴尾村だったわけではなく、江戸時代は牛毛荒井村だったので、ちょっとややこしい。 本来は荒井村と牛毛村は別で、江戸時代前期に合体する形になって牛毛荒井村と呼ばれるようになった。 津田正生は『尾張国地名考』の中でこう書いている。 「【箕浦賢屯曰】牛毛と新井は二村なり 文化年間より官府にては一串に牛毛新井とよぶ 【正生考】新井は天白川と鳴海宿の扇川とを堀わるに付て呼る名にや猶尋ぬべし」 荒井と新井では由来が違ってくると思うのだけど、江戸時代はどちらの字も使われていたようだ。 牛毛荒井村のうちの荒井村の神社がこの若宮八幡社で、牛毛村の神社が天王社(牛毛神社)だった。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではないが、口伝によれば宝暦年間(1751-1763)荒井村の鎮守の神として奉斎したという。『尾張志』に若宮八幡社、荒井村にあり社人を青山出雲と云う、とあり。明治5年7月、村社に列格した」 江戸時代中期に若宮八幡を初めて祀るだろうかと考えると疑問だ。 『寛文村々覚書』(1670年頃)は牛毛荒井村としてこう書く。 「社弐ヶ所内 天王 八幡 当村祢宜 喜大夫持分 社内五畝拾歩 前々除」 この八幡が今の若宮八幡のことだとすると、前々除とあるので1608年の備前検地以前にさかのぼるということになる。 ただ、若宮八幡が途中で八幡になることはよくあっても、八幡が若宮八幡になった例はあまりないのではないかと思うので確信が持てない。 『尾張志』(1844年)は『愛知縣神社名鑑』が書いているように荒井村の若宮八幡ノ社としている。
鳴尾の地名がいつ頃からあるのかは分からないのだけど、わりと古いかもしれない。 かつて天白川のほとりに鳴尾の松と呼ばれる名松があって、船頭の目印となっていたという話が伝わっている。桶狭間の戦いで今川勢が尾張の星﨑城を攻めるときにこの松を目標にして上陸したという。 その松はさすがに枯れてしまったのだけど、三代目が松風公園(地図)に植えられている。
この神社が最初から若宮八幡だったかどうかはなんとも言えない。若宮が若宮八幡になる例もあり、その場合は非常に古い神社ということになる。 神社北の国道1号線は元の東海道だ。東には有松が、北西の熱田には宮宿があった。 境内の三基の常夜灯(天保9年/1838年)に雉本小右衛門などの寄進者名が刻まれている。雉本は永井から改称したもので、鳴尾に本家があった。永井荷風はここの家の出だ。若宮八幡は永井家にとっても氏神だったのだろう。 神社に隣接する西方寺(地図)の南に永井本家8代目で儒学者だった星渚(せいしょ)の屋敷跡が残っている。
若宮八幡というと、八幡神である応神天皇の息子、仁徳天皇を祀っていることが多い。宇佐神宮(web)や石清水八幡宮(web)などの若宮から勧請して建てたところも少なくない。 名古屋には名古屋総鎮守の若宮八幡社がある。ただ、この若宮八幡社はもともと若宮だったので系統は違う。 元鳴尾の若宮八幡は祭神を大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)としている。これは仁徳天皇のことなのだけど、あえて和風諡号(わふうしごう)にしたのは何か意味があるのだろうか(仁徳は漢風諡号)。 大鷦鷯尊は『日本書紀』での表記で、『古事記』では大雀命となっている。 鷦鷯はミソサザイのことだ。日本には年間を通じて生息しているのだけど、野鳥好きの人でなければ姿を見たという人は少ないと思う。全身茶色の非常に小さい鳥だ。大雀といい、大鷦鷯といい、小さな鳥に大を付けた諡号の意図はなんだったのだろう。
謎というほど大げさなものではないのだけど、始まりがさっぱり分からない神社だ。『愛知縣神社名鑑』がいう宝暦年間(1751-1763年)の創建は信じないけど、どこまでさかのぼれるかと考えると見当がつかない。 ここは天白川と扇川の合流地点で、大雨でも降れば堤防は決壊して水に浸かったのではないかと思う。古くからこの場所にずっとあったとは考えにくい。 何故、若宮八幡だったのかがやはり最大の謎ということになるだろうか。
作成日 2017.4.28(最終更新日 2019.8.10)
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