地下鉄の平針駅と原駅の間の旧街道沿いにある神社。 この通りはかつての平針街道(駿河街道)で、街道沿いに平針宿があった。神社があるのは、集落の西の端あたりだ。こういった場所には火除けのための秋葉社が置かれることが多いのだけど、御嶽神社というのはちょっと珍しい。
名古屋城(web)築城中の1612年、徳川家康が自身の住む駿府城と名古屋城をつなぐ近道として開いたのが駿河街道で、それまでの平針村はもう少し北の天白川に近い場所にあった。郷の島などと称しており、後に元郷と呼ばれるようになる。かつては針名神社もそこにあった。 街道沿いに平針宿を作るよう家康に命じられたため、郷の島は集落ごと移って宿場を開いた。そのとき中心になった人物が桶狭間の戦いで今川方についてその後浪人となっていた村瀬氏だったという。 この功績が認められて平針村は年貢以外の諸役を免じられ、尾張藩領となった。 この場所に平針村の集落ができたのが1612年以降なので、御嶽神社が建てられたのも江戸時代もしくはそれ以降ということになる。 春日井の牛山出身の覚明行者が御嶽山登拝を強行したのが1785年(天明5年)で、その後、一般人も御嶽山に軽潔斎で登れるようになり、各地で御嶽講が結成されたという流れを考えると、平針の御嶽神社が建てられたのは江戸時代後期の1800年以降ではないかと思う。 『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)などの江戸期の書に御嶽社についての記述はない。
平針御嶽神社はお堂のような姿をしているの一見すると神社ではないように見える。小さい社号標に「御嶽神社」とあり、やっと神社と分かるくらいだ。 堂前の左右に石仏がある。左側が刀を持つ不動明王像で、右は弓を射る姿をしている。こちらも不動明王なのかそうではないのか。 不動明王は御嶽教にとって重要な存在とされており、御嶽神社にあることは不自然なことではない。 「四国西国秩父坂東霊場順拝供養塔」と彫られた石柱があり、御嶽教の「山丸三マーク」が彫られている。御嶽教の信者が奉納したものだろうか。 山丸三マークの山は御嶽山、丸は宇宙を、三本線の真ん中は大日如来、上は不動明王、下は摩利支天をそれぞれ表しているとされる。 百草丸が同じマークを使っているのは、御嶽山の修験者たちが薬草の知識を村人たちに伝えたのが始まりだからだ。 おそらく現在も平針の御嶽教の人たちがここを守っているのだと思う。
神社がある通りは、かつての平針街道の面影をわずかに残している。格子の構えの「神田かつら」などが往事の名残を見ることができる。 神社の参拝に訪れた際は、そちらも少し歩いてみることをおすすめしたい。
作成日 2017.12.14(最終更新日 2019.2.3)
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