もともとは鍋屋上野村(千種区上野町)にあった神社で、少なくとも二度遷座して現在に至っている。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。明治12年据置公許となる。この社は千種区鍋屋上野町77番地に鎮座のところ、昭和15年12月20日、南区観音町2丁目に遷座する。この境内六十坪で県知事より百五十坪以上に拡張の通達をうけ氏子一同の結集し、今の社地三百六十五坪を整え昭和18年10月6日、社殿を始め境内も立派に造営したが昭和20年5月17日、空襲に炎上、戦後は仮殿に鎮座のところ昭和34年9月伊勢湾台風により流失す。昭和38年10月氏子の熱意により社殿を造営復興、昭和54年4月24日十等級に昇級した」
『南区の神社を巡る』は少し違っていて、遷座したのは昭和5年(1930年)で、最初観音山に遷座して、昭和17年(1942年)に道徳の現在地に移されたとする。 旧地の鍋屋上野町77番地は、現在の千種区上野3丁目で、正確な場所は分からないのだけど、千種公園(地図)の南あたりではないかと思う。 『尾張志』(1844年)の鍋屋上野の項を見ると神社は「浅間社 天王社 一御前社 八王子社 愛宕社 天神ノ社」で、山神社はない。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の上野村の項には「社 七ヶ所 内 天神 浅間 八幡 天王 愛宕 山神 一王御前 社内弐町壱反七畝弐拾歩 前々除」とあり、山神社がある。 この山神社が今の山神社のこととすれば、創建は1608年の備前検地以前までさかのぼることになる。 『尾張徇行記』(1822年)は「庚申堂界内四畝、一ノ御前祠界内三反、愛宕祠界内四反八畝八歩、八王子祠界内五畝、山神祠界内一畝十八歩前々除」と書く。
観音山については少し説明が必要だ。 稲荷社(道徳)のページに書いたように、道徳は道徳前新田と呼ばれる新田だった場所だ。 海西郡塩田村出身の豪農・鷲尾善吉が1817年に開発を始めて1824年に完成させるも、堤防決壊などによる度重なる被害で手放さざるをえなくなり尾張藩の所有となった。大正14年(1925年)に尾張徳川家が開放し、福澤桃介の名古屋桟橋倉庫株式会社が買い取った。 名古屋桟橋倉庫はこの土地を開発してレジャーランドを作ることを思いつく。 昭和3年(1928年)から工事は始まり、昭和7年(1932年)に観音町1丁目に突如、高さ18メートルの人工の山が出現した。コンクリートで固めた山に土を盛り、山頂に高さ2メートルの観音像を置き、近隣から観音像も集めてきて観音山と名づけた。 数年後にはあらたに6メートルの観音像を作って取り替えた。 山からは落差10メートルの滝が流れ落ち、その下は子供が遊べるプールになっていた。山の中には名古屋初のスケートリンクが作られ、温泉場「泉楽園」もあった。当時としては斬新すぎるくらいのレジャースポットが道徳にあったのだ(地図)。 高い建物などなかった時代なので伊勢湾を見渡すことができ、昼間は子供たちが遠足にやって来て、夜は夜景スポットとしてカップルがデートに訪れたという。 そんな観音山に山神社が移されたのは昭和5年だったのか昭和15年だったのか。 道徳前新田の氏神は道徳の稲荷社だったのだけど、道徳前新田が分離することになり、片方に神社がないのは寂しいということで鍋屋上野村から譲り受けることになったようだ。 鍋屋上野は大正から昭和の戦前にかけて軍事関連の工場や施設が多く作られたので、そういう理由もあって譲渡の話がまとまったのだろう。 昭和17年(1942年)に道徳通2丁目の現在地に移されたのは、『愛知縣神社名鑑』にあるように、観音山の境内地が60坪と狭すぎるので少なくとも150坪にするようにという県知事の命があったからだ。氏子たちが相談して現在地に365坪を用意して移したということのようだ(『愛知縣神社名鑑』はこれを昭和18年としている)。この土地は名古屋桟橋倉庫の二村松右衛門が所有する土地だった。 しかし、移転して間もない昭和20年5月17日の空襲で全焼。戦後に建てた仮殿は、昭和34年の伊勢湾台風で流されてしまった。再建されたのは昭和38年のことだ。 観音山は昭和18年に南側を市に寄贈して観音公園が作られた。 昭和39年に名古屋桟橋倉庫が解散したときに山は取り壊されて、今は跡形もない。2014年に説明板が公園に取り付けられた。そこには当時の写真も載っている。
境内の光徳稲荷社はかつてマキノ中部撮影所で祀られていたものだ。昭和56年にここに移した。 道徳公園や大江中学、道徳小学校が建っているところに映画撮影のためのマキノ中部撮影所があった。 名古屋桟橋倉庫所有の土地うち1万坪を竹本武夫が東海映画撮影所用地として借り受けて中部撮影所を建てた。 ここに赤穂浪士のオープンセットが作られ、1927年(大正14年)に牧野省三監督が『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を撮っている。 しかし、1928年に京都の牧野邸が火事で全焼し、中部撮影所で予定されていた分の撮影は京都に移転が決定、マキノ・プロダクションの映画部は解散となった。 結局、中部撮影所は1931年(昭和6年)に閉鎖されてしまう。 忘れ形見のように残された光徳稲荷社だけは昭和56年に移されるまでそこにあったようだ。 撮影所の跡地に、1940年道徳小学校が、1947年に大江中学が開校した。 女優の松原智恵子はこの小学校、中学校を出ている。 父親は不動産などを扱う実業家で、銭湯も営んでいた。南区六条町にある東温泉(あずまおんせん)という銭湯で、今も営業しているらしい。 松原家は山神社に狛犬や石碑も奉納しているというから、今の狛犬などがそうなのかもしれない。
何の予備知識もなく訪れて、これはなかなかいい神社だと思った。歴史を調べてみて、いろいろあったことを知った。 神社は縁もゆかりもない場所に移っても創建からの歴史を引き継ぐかどうかということを考えることがある。神社は場所であり、空間であって、社殿ではない。場所が地区を越えて大きく移ってしまうとリセットされるような気もするのだけど、必ずしもそうではないのか。 この山神社に関していうと、昭和からの歴史しかないような新しい神社という印象ではなく、歴史を積み重ねてきた空気感があるように思えた。それは非常に軽やかで清々しい清浄なものだ。変な重さはない。 場所は移っても人々の思いがつながっていれば空間を超えて時間もつながるということなのだろう。
作成日 2018.4.12(最終更新日 2019.8.27)
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