この社があるのは、国道19号線(伏見通り)から少し西に入ったところで、断夫山古墳や熱田球場のある熱田公園の北に当たる。 北東には高座結御子神社(地図)があり、エリアとしては高蔵地区ということになる。 この高蔵というのは古い歴史のある土地で、熱田の断夫山古墳や白鳥古墳といった大型の前方後円墳とは別の古墳群(高蔵古墳群)が見つかっており、熱田の尾張氏との関係性が謎めいている。 神社がある幡屋(はたや)という地名も古く、『日本書紀』に書かれている雄略天皇14年(470年)に呉から漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)と衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)が献じられたという記事の中のひとりが熱田の地にとどまったことから機綾(はたあや)という地名になり、それが幡屋に転じたとされる。 同様の伝承は兵庫県の西宮市や大阪の池田市などにもあり、漢織・呉織は個人のことではなく綾織(あやおり)の技術者全般を指しているとも考えられる。 このあたりのことについては猿田彦宮のページにもう少しくわしく書いた。 ちなみに、錦織(にしこり/にしきおり/にしごり等)といった名字も渡来系の機織にルーツを持つ可能性がある。 ゆうびんjpに名字に関するちょっと面白いサイトがあるので、自分の名字を検索してみると分かることがあるかもしれない。
ニッポンの名字
それにしても、綾織の伝承が熱田ではなく高蔵に残されたということは見過ごせない。 5世紀後半といえば断夫山古墳(6世紀初頭)や白鳥古墳(6世紀前半)はまだ築造されていない。5世紀後半から6世紀前半にかけて高蔵では多くの小型方墳が築造された。高蔵では竪穴式住居跡なども見つかっている。その後、高座結御子神社を囲むように円墳が築かれたのが6世紀後半とされる。 これらの古墳の有り様から見ると、熱田を拠点とした尾張氏と高蔵の勢力は別なのではないとも思える。 『延喜式』が編さんされた927年の時点では高座結御子神社は熱田社の関係社(名神大社)とされているから、どこかで尾張氏の支配下に入った(もしくは融合した)のは間違いないのだろうけど。
神社に参拝すべく門を開けて中に入ろうとしたら、門に鍵が掛かっていて入ることができなかった。普段から入れないようにしているのか、このときはたまたま閉まっていたのかは分からない。 隣の加藤硝子製作所の敷地内のようにも見える。賽銭箱も置かれていて普通の神社のようではある。 祭礼のときに撮られた写真を見ると、秋葉社・熱田社・津島社を祀っているようだ。屋根神様を降ろして祀ったものか、もともと地上で祀った町内神社なのか判断がつかない。 氏神として高座結御子神社を祀って高蔵神社と称しているという話もあるのだけど裏付けが取れていないのでとりあえず小社としておく。
門の外から参拝しただけではちゃんと挨拶できた気がしないので、機会があれば再訪して確認したい。 例祭日は6月1日のようだからその日に行ってみればはっきりするだろう。
作成日 2018.10.10(最終更新日 2019.9.18)
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