孫若御子神社(熱田神宮内)

若宮八幡が孫若御子神社の本体なのか?

孫若御子神社

読み方 ひこわかみこ-じんじゃ(あつたじんぐう-ない)
所在地 名古屋市熱田区神宮1丁目1 地図
創建年 不明
社格等 不明
祭神 天火明命(あまのほあかりのみこと)
アクセス 地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約7分
駐車場 あり(無料)
webサイト  
オススメ度

 熱田神宮(web)の境内にある摂社の内のひとつ。
 ただし、熱田で由緒ある神社とされる熱田七社には含まれない(熱田神宮・八剣宮・高座結御子神社・日割御子神社・氷上姉子神社・上知我麻神社・下知我麻神社)。
 その始まりや歴史が非常に分かりづらい神社で、本来の祭神が何だったのか、元地がどこだったのか、どういう勢力が祀る神社だったかなど、ほとんどが不明とされている。熱田神宮の摂社の中でもこれほど分からない神社は他にないかもしれない。

 927年完成の『延喜式』神名帳に「愛智郡孫若御子神社 名神大」として載っており、それより以前の836年の『続日本後紀』には「尾張国日割御子神 孫若御子神 高座結御子神 惣三前奉レ預二名神一 並熱田大神御児神也」と書かれている。
『延喜式』神名帳に載るということは平安時代中期には官社となっていたということであり、名神大は名神大社のことで、霊験あらたかな神社と国が認めたということを意味している。
 神名帳の中で尾張国の名神大社は、一宮の真清田神社、大神神社、太神社、犬山市の大縣神社、名古屋市の熱田神社、高座結御子神社、日割御子神社、孫若御子神社だけだ。
 にもかかわらず、現在の孫若御子神社は、熱田神宮の中にたくさんある境内社のひとつでしかない。境内地こそやや広いものの、これは江戸時代に大幅田社があった跡地というだけで、明治7年(1874年)に移されるまでは西門の鎭皇門に近い御田社の南隣にあった。今は鳥居も拝殿もない。
 落ちぶれたといってはいけないのだろうけど、他の神社と差をつけられたのは近世のことではなくすでに中世からだったようだ。
 江戸時代後期の1830年に写された国府宮威徳院蔵本の尾張国『国内神名帳』がある。オリジナルがいつの時代のものかは分からないのだけど、『国内神名帳』は平安末に作られたとされているので、それの写しの写しの写しみたいなものかもしれない。
 それによると、熱田大明神、八劔大明神が正一位上になっており、高蔵名神、日割名神が正二位上となっているのに対して孫若御子天神は正四位下になっている。天王坊本でも従三位下だから、高蔵、日割とは差がついてしまっている。
 熱田の関連社でいうと、青衾名神や千竈上名神、千竈下名神も正二位上で、今は小さな境内社になっている今孫名神や乙子名神もこのときは正二位上だった。
 どうして孫若御子神社だけが昇格から取り残される格好になってしまったのか。

 明治9年に完成した『特選神名牒』というものがある。『延喜式』神名帳の注釈書という位置づけのもので、明治の神仏分離令を受けて、一度式内社の由緒を調べ直してはっきりさせることを目的として編まれた。
 その中で、この孫若御子神社についてけっこう大胆な仮説を書いている。
 江戸期の尾張藩の国学者で神社研究家でもあった天野信景(あまのさだかげ)の説としつつ、熱田社にある孫若御子神社は遙拝所で、本体は若宮八幡社ではないかというのだ。
 若宮八幡社はもともと八幡社ではなく若宮と呼ばれていた。孫若御子神社の孫若と通じるものがあるといえばある。
 後に名古屋城の三の丸になる場所に天武天皇時代の大宝年間(701-704年)に創祀されたのが始まりと伝える。
 若宮八幡というと八幡神である応神天皇の子供の仁徳天皇を祀るとすることが多く、現在の若宮八幡社でもそうなっている(応神天皇と武内宿禰命も祀る)。
 しかし、単に若宮というと、若くして亡くなったとか不慮の死を遂げた人物を祀るということが出てくる。怨霊とならないように鎮めるという意味で神として祀った。
 その若宮の隣に、911年に醍醐天皇の勅命で天王社が建てられたという。今の那古野神社だ。
 何故、この場所にあえて建てたのか。そこには必ず理由と必然があったはずだ。
 天王社は津島市の津島社から勧請したとされる。津島社というと中世はスサノオと牛頭天王が習合して津島牛頭天王社と称していたのだけど、本来の祭神はスサノオだ。540年に現在地近くに鎮座し、810年に現在地に遷座するとともに嵯峨天皇に正一位の神階と「日本総社」の称号を贈られている。天王社を称するようになったのは正暦年間(990-994年)に一条天皇から「天王社」の号を贈られて以降のことだろうから、名古屋の天王社の創建が911年だとしたら、そのときの祭神はスサノオだったと考えられる。
 若宮の隣にスサノオを祀ったのはどんな意味があったのか。
 醍醐天皇というと菅原道真を左遷して死に追いやった天皇だ。この頃、都では関係者の変死が続き、道真の怨霊におびえていた。それを鎮めるために各地で祈祷させたのが天王社だったかもしれない。
 若宮が若宮八幡とされるのは江戸時代に入ってからのことだ。名古屋城築城以前の那古野城時代の絵図を見ると、三の丸になるところに若宮があり、少し離れた北西の二の丸になるところに天王と八王子が並んでいる。
 那古野城時代の合戦(1532年)で若宮と天王は焼けて織田信秀が1540年に再建しているから、それ以降にこの配置になったのだろう。
 1610年に名古屋城が築城されるときに若宮は城外の現在地に移され、名古屋城下の総鎮守とされた。

 この若宮(八幡)が孫若御子神社かどうかは別にして、若宮を建てたのがどういう勢力だったのかが気になるところだ。
 ここは名古屋台地(熱田台地)の北の縁で、熱田台地の南端にある熱田社とは別の勢力だったような気がする。このあたりで大きな前方後円墳が見つかっていないのもそう考える理由のひとつだ。
 もし天武天皇が何らかの形で若宮創建に関与したとしたら、天武天皇即位に協力した尾張の氏族のひとつだったかもしれない。尾張氏と同盟関係か、もしくは下についていた別の氏族だっただろうか。
 若宮は飛鳥時代創建とされながら『延喜式』神名帳には載っていない。孫若御子神社=若宮だとすれば辻褄が合う(辻褄が合うからといって真実とは限らないけど)。
 天王はひょっとすると正二位上須佐男名神ではないかと思ったりもするのだけど、それはまた別の話だ。
 創建から100年以上も経てば時代も変わるし勢力図も大きく変化している。平安時代はもう地方豪族の時代ではなかった。人も神社も中央政権の支配下に入って、その過程で祭神の入れ替えも行われたに違いない。
 836年の『続日本後紀』の時点で日割御子神、孫若御子神、高座結御子神が熱田大神の子供とされているからといって最初からそうだったとは限らない。
 考えてみると孫に若に御子というのはおかしな名前で、同じような意味がかぶっている。いくつかの銀行が合併した後の名前みたいだ。

 孫若御子神社の祭神については様々なことがいわれてきた。
 稚武彦王(ワカタケヒコ)だとか、ヤマトタケルの孫に当たる応神天皇だとか、『熱田太神宮記』や『熱田宮旧記』は瓊々杵尊(ニニギノミコト)を主張していた。
 いつから天火明命(アメノホアカリ)になったのかはよく分からない。明治以降のことだろうか。
 アメノホアカリは
アメノオシホミミ(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命/正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊)とヨロヅハタトヨアキツシヒメ(萬幡豊秋津師比売命/栲幡千千姫命)との間に生まれた子で、ニニギノミコトの兄に当たる。
『先代旧事本紀』は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)とし、アメノホアカリとニギハヤヒを同一としている。それが本当なら尾張氏の祖と物部氏の祖は同じということになる。
 アメノホアカリは尾張国一宮の真清田神社や守山区の東谷山山頂にある尾張戸神社などで祀られる。

 若宮は江戸時代を通じて若宮八幡として名古屋城下の守り神としてすっかり定着した。だから、軽々しく若宮八幡は本来は孫若御子神社だなどといってはいけないと『特選神名牒』は書いている。確かにそうだ。今更そんなことをいっても仕方がないし、いわれた方だって困るだろう。
 それに、若宮は名古屋城築城前まで名古屋台地北にあったわけで、ここは熱田ではない。平安時代の前期から中期にかけて熱田大神の子神とされた孫若御子神社とは位置関係に矛盾があるように思う。
 だとすると、孫若御子神社の元地はどこだったのかということになるのだけど、それはやっぱり分からない。熱田地区だったのか別の土地だったのか。名古屋台地の北でも無理はないのか。
 名神大社というからには境内社ということはあり得ず、どこかに社地を持った神社だったはずだ。その旧地とされる伝承さえ残っていないのはおかしい。
 もし若宮=孫若御子だとすれば、謎が多い名古屋台地北部の歴史を解明する手がかりになる。
 名古屋城が建つ場所の少し東の長久寺あたりで縄文時代から古墳時代にかけての遺跡や遺物が多数見つかっていることからしても、名古屋台地北部も古くから人が暮らす土地だったことは間違いない。縄文から弥生、飛鳥へと至る時代の中で祈りを受け継ぐ形のひとつとして古い神社がこの地にあることは必然といえる。
 名古屋台地北部勢力と熱田台地南部勢力との関係性も鍵を握っている。
 難しいテーマなので簡単に答えが出るものではないけど、今後とも検討を続けていくことにしたい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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