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白山神社(丸の内)


泥江縣神社と切り離されて独立した



丸の内白山神社

読み方はくさん-じんじゃ(まるのうち)
所在地名古屋市中区丸の内1丁目15-18 地図
創建年不明
旧社格・等級等指定村社・十二等級
祭神菊理媛命(くくりひめのみこと)
アクセス地下鉄鶴舞線「丸の内駅」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他例祭 10月12日
オススメ度

 創建年は不明。加賀国一宮の白山比咩神(web)から勧請したと伝わる。
 読み方は「はくさん」だと思うのだけど「しらやま」かもしれない。
『愛知縣神社名鑑』によると、「元白山権現と称した。創建は明かではないが、応永・永禄の頃(1394-1569年)は泥江縣神社の境内続きの末社であったが、慶長十七年(1612)検地の際境内二分せられた」とのことだ。
 現在は泥江縣神社との間に桜通という広い道路が走っているので完全に別の神社となっている。
 かつて泥江縣神社は八丁四方(1丁は約109メートル)という広大な境内を持っていたとされる。
 地続きだった時代は、今のように北と南の関係ではなく、白山は別の場所にあったのかもしれない。桜通の拡張のときも移された可能性がある。
 それにしても、地続きで末社だった状況というのがよく分からない。応永年(1394年)にはあったというのだけど、創建はどこまでさかのぼるだろうか。
 慶長検地で境内を二分させたというのは、このとき、傳馬町をここに作ったことで泥江縣と白山が分断される形になったようだ(慶長17年)。
 泥江縣神社の記録によると、延宝元年(1673年)に初めて神輿を作って、大祭のときは泥江縣神社から白山権現に渡御を行っていたとある(『泥江県神社小伝』)。分離した後も白山権現は御旅所となっていたということは、やはり泥江縣神社と白山権現は関係が深かったということだろう。
 渡御が始まったきっかけは、何人もの町人が夢のお告げで渡御するようにという神託を受けたためだったという話も伝わっている。



 このあたりは名古屋城下の碁盤割になった地区で、町人の町だった。
 現在の桜通は桜ノ町筋、その一本南の伝馬町通りは伝馬町筋と呼ばれていた。
 白山権現の一本北の通りが杉の町筋で、南の伝馬町筋までが上材木町(うわざいもくちょう)だった。
『尾張志』(1844年)にも「白山ノ社 材木町にあり」とある。
 上材木町の他に、下材木町、元材木町があった。
 ここは清須越で移ってきた人が作った町ではなく、京都あたりから引っ越してきた人たちが集まる町で、当初は京材木町と称していた。町屋ができたのは寛文年中(1661-1673年)という。
 町の西を流れる堀川の水運を利用する材木商が増えて、上、下、元の材木町ができた。
 材木屋の称号を名乗れるのはこの3つの町だけで、他は板屋、白木屋などと称していた。



『尾張志』は白山社についてこう書いている。
「祭神三座 菊理姫神を中座とし 左 伊弉冉ノ神 右 黄泉守道(ヨモツチモリ)ノ神也といへり 是は神名式に加賀国石川郡白山比咩ノ神社を移して祭れるやしろなり 勧請の年月しりかたし もとは廣井八幡の社地と連続(つづき)たる境内にて年中の神供調進をはしめ萬の事ともかの八幡の社より掌りしよし也」
 現在の祭神はククリヒメ(菊理姫命)の一柱としているけど、江戸時代はイザナミ(伊弉冉ノ神)と黄泉守道の三柱を祀っていたようだ。
 黄泉守道者(ヨモツモリミチヒト)は、イザナギとイザナミがモメているとき仲裁に入ったククリヒメと一緒に登場する黄泉の国へと通じる道の番人だ。『日本書紀』の一場面でしか登場しないという点ではククリヒメと同じなのだけど、知名度は低く、神社で祀られている例はあまりないと思う。
 どうして白山社はイザナミとヨモツモリミチヒトを祀るのをやめてしまったのだろう。明治の神仏分離令で白山権現から白山神社に改称したときにそうしてしまったのだろうか。



『尾張志』は秀吉と大楠に関するエピソードを紹介している。
「境内にいと大樹の楠ありしを太閤秀吉公朝鮮征伐のとき軍船の用材にせむとて伐せられけるに人夫多く疵を蒙りしかは其木を社司に寄られてさて其事止られけるとそかくて後にかの楠木にて地蔵の像を令彫たり そは今南寺町なる徳林寺にありといへり」
 白山権現の境内にあった大きな楠を、朝鮮出兵のときに使う軍船の用材として使うため切り倒したところけが人が続出したのでやめた、という話だ。
 秀吉の夢に童子が現れてその楠で地蔵菩薩を彫れば願いが成就するだろうと告げたためその通りにして極楽院に納めたという話もある。
 極楽院は退廃してしまったため地蔵菩薩はよそへ流れて、今は徳林寺にあるとしている。
 南寺町というのは今の白川公園(地図)あたりで、たくさんの寺が集められていたためそう呼ばれた。今の新栄にあった東寺町(地図)同様、家康によって作られた軍事的防御機構という面があった。
 徳林寺がその後どうなったかは分からない。



『尾張名所図会』(1844年)にちょっと気になる記述がある。
「旧地は愛知郡中島村にありしと、張州志略にありと」
『張州志略』は富梁堂吉兵衛による地誌なのだけど、愛知郡中島村というのは中村区の中島村のことだろうか。
『尾張徇行記』(1822年)にもこのことが書かれている。だとすると、また事情は違ってくるのだけど、確かな話として信じていいのかどうか判断がつかない。



 泥江縣神社と同じく、元禄13年(1700年)と享保9年(1724年)の火事で焼けている。
 一番古い棟札は天正年中(1573-1591年)のもので、その他各時代の10枚以上の棟札を社蔵しているようだ。
 第二次大戦で焼けたという話がないので、ここは被害を免れただろうか。



 境内は狭いながらも天神社、少彦名神社、疱瘡神社、恵比須宮、松尾宮、神明宮、山神宮、秋葉宮、金毘羅宮と多くの境内社があり、白玉稲荷社も隣接している。
 戦前までは境内が173坪あったというから、ちょっとした一軒家くらいの広さだったようだ。江戸時代は当然もっと広かったに違いない。
 街に埋もれるように鎮座する神社にも歴史がある。何故都会のこんな場所に神社があるんだろうというところほど古い歴史を秘めていたりする。この丸の内の白山神社もそういう神社のひとつだ。
 目についたらちょっと立ち止まって、遠い過去から現在まで流れた時間を思ってもいいんじゃないだろうか。




作成日 2017.7.24(最終更新日 2019.9.12)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

都会に生きる丸の内白山神社

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