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八劔社(鳥栖)


ここで草薙剣の代替を作った?



鳥栖八劔社

読み方はちけん-しゃ(とりす)
所在地名古屋市南区鳥栖2丁目20 地図
創建年伝708年(飛鳥時代末)
旧社格・等級等村社・十等級
祭神天照御大神(あまてらすおおみかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
正哉吾勝命(まさかあかつのみこと)
アクセス地下鉄「桜本町駅」から徒歩約10分
駐車場 あり
その他例祭 10月10日
神紋五七桐竹紋
オススメ度**

 ちょっと他の神社とは違う空気感を持ったところだと感じた。
 古墳の上にあることだけは行く前から知っていたものの、それ以外の予備知識はなかった。
 最初北側から入ってぐるりと回り込むように境内に至ったとき、ん? なんだろうここは? と思った。不思議な違和感というか、なんか変わったところだなという感覚があった。
 正面入り口は南側のようだったので、いったん階段を下りて、南の鳥居から入り直すことにした。そのとき南入口にあった説明板を読んで驚いた。
 草薙剣が盗まれたときに代わりになる剣をここで作ったとある。そんな話があることを初めて知った。熱田神宮関連のことを調べているときも、そんな話はまったく出てこなかった。



 説明板によると、和銅元年(708年)に新羅の僧・道行(どうぎょう/どうこう)によって熱田社から草薙剣が盗み出され、そのことを時の天皇である元明天皇に知られることを恐れた熱田社の人間が、この地の鍛冶屋に命じて新たな剣を作らせ、それを熱田社の別宮である八剱社におさめたとある。
 本当だろうか? これはどこから出てきた話なのか。出典は書かれていないから神社にそういう話が伝わっているということだろうか。
 にわかには信じられないのだけど、いくつかの点で思い当たることがあり、ある種のリアリティーを持つ話ではある。
 その説明板には、多治比真人が新剣を祀るための仮神殿を建て、安部朝臣とともに37日間の修祓(しゅばつ=清めの儀式)を行ったのち、9月9日八剱社に納めたとも書かれている。作り話とは思えない具体性がある。
 多治比真人に「たじひまさと」とフリガナを振っているけど、これは「たじひのまひと」だ。真人(まひと)は684年に第40代天武天皇が制定した八色の姓(やくさのかばね)のうちの一番上の姓(かばね)で、個人名ではない。基本的に第26代継体天皇の近親者とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられたもので、息長氏(おきながうじ)をはじめ13氏族に真人の姓が与えられた。多治比氏もそのひとつだ。
 多治比氏は第28代宣化天皇(せんかてんのう)の
三世孫・多治比古王を祖とする有力氏族で、朝廷で最高位の役職を務めるなどしていた。
 宣化天皇は継体天皇の皇子で、母親は尾張氏の首長だった
尾張草香(おわりのくさか)の娘である目子媛(めのこひめ)だ。
 熱田にある断夫山古墳は、この尾張草香もしくは目子媛の墓という説がある。
 それと、安部朝臣(あべのあそみ/あそん)の朝臣も八色の姓のひとつで、上から二番目に相当する(皇族以外では最高位となる)。
 剣を清めるために作った仮神殿の跡地に社を建てて八劔社としたのがここ鳥栖の八劔社だと社伝は伝えるということだ。



 草薙剣盗難事件について『日本書紀』(720年)は、668年(第38代天智天皇7年)に沙門(僧侶)の道行が草薙剣を盗み出して新羅に逃げようとしたところ暴風雨にあって海を渡れず迷って帰ってきたと書く。
 事件から18年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇が病気になり占ったところ草薙剣の祟りということになり、熱田社に送り置いたとある(このあたりのいきさつについては影向間社のページに書いた)。
 しかし、鳥栖八劔社の社伝では、草薙剣を盗まれて剣を新造して納めたのは708年(和銅元年)としている。
 ではこの話は嘘かというと、実はこの708年というのは熱田の八劔社(八剣宮)が創建されたとされる年なので、あながち嘘とも言い切れない。
 熱田八劔社の由緒では、708年(和銅元年)に天明天皇が命じて新剣を作らせ、それを祀るために建てたとしている。
 668年に盗まれた草薙剣は686年に戻ってきているはずなのに、708年にあらたに剣を作ってそれを祀る神社まで建てたというのがどういうことなのかが分からないのだけど、草薙剣盗難事件と新剣を作ったことは別々の話で、それが混ざってしまったということは考えられるだろうか。
 鳥栖八劔社の由緒であえて盗難事件と神社創建を708年としたことに何か理由があったはずだ。668年と708年では意味が全然違ってくる。
 熱田社では草薙剣を本社ではなく土用殿に納めていた。
 熱田八劔社(八剣宮)は、熱田社の別宮という扱いで今は境内に入っているものの、もともとは熱田社の外にあって、別の神社だった。
『延喜式』神名帳(927年)では「八劔神社」となっており、平安時代中期もまだ別神社だったことが分かる。



 この事件の前後の歴史を確認すると、まず乙巳の変(大化の改新)が645年に起きた。その首謀者の中大兄皇子が天智天皇として即位したのが668年のことで、これは『日本書紀』がいう草薙剣盗難事件の年に当たる。
 盗んだのを新羅の沙門(僧)としたのは何故なのか。
 その5年前の663年、倭国は百済と組んで新羅・唐連合軍と戦い大敗している(白村江の戦い)。その結果、百済は滅亡して、大量の難民が倭国に渡って来たと考えられる。
 どういう理由で新羅の僧が草薙剣を欲したのか。黒幕がいるとしたらそれは誰だったのか。
 この当時の草薙剣が天皇即位に必要な三種の神器のひとつだったかどうかはともかく、神社の御神体であり、天皇ともゆかりの深い剣を盗もうとして捕まったなら死刑であっておかしくないのにそういう話は伝わっていない。その後許され、知多に法海寺(web)という寺を建てたという話さえある。
 天智天皇の皇子・大友皇子(明治時代に第39代弘文天皇とされた)と天智天皇の弟とされる大海人皇子との間で起きた争いが壬申の乱だ。672年のことだった。
 勝利した大海人皇子は翌673年に即位して天武天皇となる。
『日本書紀』の記述からすると、道行から取り戻した草薙剣は宮中にあって、その草薙剣が天武天皇に祟ったということになる。それはどういうことを意味しているのか? あるいは、何を暗示しているのか。
 天武天皇の後が天武の皇后だった第41代持統天皇で、第42代文武天皇(天武の皇子・草壁皇子と元明天皇との間の皇子)を挟んで次が第43代元明天皇となる。文武天皇が25歳で死んでしまい、その皇子が幼かったため、元明天皇が間をつなぐことになった。元明天皇は天智天皇の第4皇女で持統天皇の異母妹に当たる。
 元明天皇は710年に都を奈良の平城京に移した天皇であり、712年に『古事記』が完成したときの天皇でもある。
 神社の説明板に出てきた多治比真人と安部朝臣は、多治比池守(たじひのいけもり)と阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)のことだろう。『尾張志』(1844年)は熱田八剱社創建の話の中でこの二人の名前を挙げている。実はこの二人、平城京造営の責任者だった。
 708年に即位した元明天皇は太政官人事の再編成を行い、平城京遷都に際して多治比池守と阿倍宿奈麻呂を造平城京司長官に任命している。
 その二人が草薙剣の代わりを新造するとなれば元明天皇が知らないはずがなく、元明天皇が命じたと考えるのが自然だ。しかも708年に平城京造営の責任者二人が都を何日も留守にするなら特別な理由がなくてはならない。平城京遷都と尾張での新剣作りは連動していたと見るべきではないのか。
 ただ、そのことが何を意味するかは分からない。作られた剣が一本だけだったとは限らない。数本作られたとしたら、それらの新剣はどこへ行ったのか。



 草薙剣は銅製か鉄製かという議論がある。
 銅製なら鋳造(ちゅうぞう)で、鉄製なら鍛造(たんぞう)だ。鋳造は溶かした金属を型に流し込んで固めて造るのに対して、鍛造は叩いて形を作ることをいう。
 草薙剣は神職も見てはならないということになっていて誰も見たことがないとされているのだけど、江戸時代前期の1686年に熱田社が修理されたとき、役人たちがこっそり見たという記録が伝わっている。
 それによると長さは二尺七寸(約82cm)ほどで、中程に厚みがあり、本の方六寸は節立っていて魚の骨に似ており、白っぽい色をしているとある。
 それが本当だとすると、両刃の剣で、鉄製ではなく白銅色ということになるだろうか。鋳造した銅剣にしては長すぎるという話もあり、赤土で覆っていて錆びていなかったとすれば日本刀のような鉄製ではないかともいう。あるいは、古代にあった何か特別な金属(たとえば伝説の金属ヒヒイロカネとか)で作られたものかもしれない。
 本来の草薙剣が銅剣なら鳥栖八劔社で造ったのも銅製だろうし、草薙剣が鉄製なら鳥栖八劔社でも鉄製ということになる。
 708年当時の尾張で鉄を鍛造して刀を作れた集団はごく限られていただろうから、それがこの地に住む鍛冶の集団だったのかもしれない。
 熱田社から見て鳥栖八剱社は東南約3.7キロに位置している。古くからここは熱田社の荘園だったようで、その関係もあっただろうか。
 新剣を作る場所としてここを選んだのには必ず理由があったはずで、それは古墳の被葬者とも関わりがあるのではないか。
 ちなみに、和銅元年(708年)という年は、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市黒谷)で初めて和銅(ニギアカガネ)の銅塊が発見されて朝廷に献上された年で、それを祝って和銅に元号が改められた。この年に古銭でおなじみの和同開珎も鋳造されている。



 神社がある鳥栖八劔神社古墳は、4世紀末から5世紀初頭の円墳とされる。
 長らく帆立貝型古墳と考えられてきたのが、平成15年(2003年)の測量調査で造り出し付円墳ということが判明した。
 直径約50メートルの円丘部に幅約30メートル、長さ12メートルの方形部が付いた形だ。墳長としては約63メートルあり、尾張の円墳としては昭和区の八幡山古墳(直径約82メートル)に次ぐ大きさということになる。
 築造されたのが4世紀末であれば、守山区の白鳥塚古墳などと並んで名古屋の古墳としても最古級の部類に入る。熱田の断夫山古墳などは6世紀前半とされているから、それと比べるとずっと古いものだ。
 詳しい調査は行われていないため、はっきりしたことは分かっていない。ただ、チャートの小礫が見つかっていることから葺石で覆われていた可能性がある。
 位置としては笠寺台地の北東部で、台地の縁からは少し離れている。400メートルほど西に鳥栖神明社古墳がある(約30メートルの円墳で築造年代不明)。
 708年の神社創建当時もここが古墳だという認識はあったはずだ。被葬者まで分かっていたのかどうか。古墳の上に新剣を清める神殿を造ったというのであれば、ここを特別な場所と考えていたということだろう。
 壬申の乱のときに尾張氏をはじめ尾張の豪族は大海人皇子に力を貸しており、天武天皇以降は尾張氏が中央との結びつきを強くしていった。その頃までに尾張氏は尾張国全域を支配下に置いていたとも考えられている。古墳の被葬者は尾張氏の誰かかもしれない。



 鳥栖は「とりす」と読み、鳥栖城(とりすじょう)があったことが知られている。八劔社のすぐ西、今の成道寺の場所にあったとされる(地図)。
 津田正生は『尾張国地名考』の中で、新屋敷の支村として鳥柄(とりから)としている。新屋敷は山崎村から一部の人たちが移って作った集落ということで名づけられたようだけど、鳥栖はもともと鳥柄集落だったのだろうか。単なる漢字の間違いということも考えられるけど、鳥柄が鳥栖に転じた可能性もなくはない。
 鳥栖城が築城されたのは室町時代中期の1467年頃という。これは応仁の乱が始まった年だ。
 当初は取隅城(とりすみじょう)と称していたようだ。
 寺部城の山口氏の重臣だった成田氏の居城と伝わる。築城者は成田縫之助時重。
 規模は東西約165メートル、南北110メートルほどだったという。
 成田氏は山口氏とともに織田信長と戦って敗れ、1559年頃廃城になったとされる。
 1770年頃に尾張藩士になっていた成田氏の子孫が尾張藩に禄を返上して農家になったようで、鳥栖城の跡地に1774年に成道寺が建てられた。成田氏の菩提寺だった鶴松寺を再興して成道寺としたともいう。



 それにしても草薙剣にまつわるこんな興味深いエピソードがあるにもかかわらず、『尾張志』(1844年)など江戸時代の書には何も書かれていないのがちょっと解せない。江戸時代には一般的に知られていない話だったのだろうか。
『尾張志』には「八劔ノ社 東の切の本居神 境内の摂社にいなりの社あり」とだけあり、『寛文村々覚書』(1670年頃)では「社弐ヶ所 内 神明 劔大明神 村中支配 社内二反九畝拾歩 前々除」、『尾張徇行記』(1822年)では「神明社 劔大明神社覚書ニ、社内二反九畝十歩前々除村中支配 庄屋書上ニ、神明社内松山九畝十歩、剣大明神社内松山二反共ニ前々除地支配トアリ 府志ニハ神明祠 八剱祠トアリ」と、それぞれあっさりした記載しかない。
『尾張名所図会』(1844年)では扱われていない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「創建は古く和銅元年(708)9月9日と云う。輪の内の氏神として崇敬深く明治5年7月、村社に列格する」



 草薙剣の伝承を全部作り話としてしまうと身も蓋もなく、真実を知ろうとしてもどこまでいっても分からない。
 鳥栖八剱社の話は何かしらの事実を伝えるものなのだろう。実際にそんなことがあったのかもしれない。火のない所に煙は立たないというように、まったくゼロ要素のところに神社は建たないし、話が生み出された背景というのは必ずある。歳月を経る中で話が大げさになったりねじ曲がったりするのは自然なことで、だからといって全部が嘘というわけではない。
 境内が発しているちょっとただならぬ感じというのは、我々に何かを訴えているのかもしれない。古墳を発掘調査すれば何か見つかるだろうけど、そこに真実があるとも限らない。
 ただ、草薙剣の代わりを作ったという話を埋もれさせておくには惜しいので、もう少しちゃんと伝わればいいと思う。




作成日 2018.3.4(最終更新日 2020.7.29)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

草薙剣の代わりを作った地というのは本当か鳥栖八劔社

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