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愛知縣護國神社

9万3千柱の上に今がある

愛知縣護国神社

読み方 あいちけん-ごこく-じんじゃ
所在地 名古屋市中区三の丸1丁目7番3号 地図
創建年 1869年(明治2年)
旧社格・等級等 指定護國神社・三等級・別表神社
祭神 嘉永六年以降大東亜戦争までの愛知県ゆかりの英霊
アクセス 地下鉄鶴舞線/桜通線「丸の内駅」から徒歩約15分
駐車場 あり
webサイト 公式サイト
電話番号 052-201-8078
その他 例祭 春4月28日-30日 秋10月28日-30日 授与所 結婚式 各種祈祷
オススメ度

 名古屋城(web)の南の官庁街の一角にこの神社はある。
 祭神が「嘉永六年以降大東亜戦争までの愛知県ゆかりの英霊」となっているように、戦争で命を落とした人たちを祀る神社だ。その数は9万3千余という。
 創建が同じ明治2年(1869年)で、その後戦没者を祀っているという点で東京の靖国神社(web)と似ている。ただ、靖国神社は明治天皇が創建したのに対して愛知県護國神社は尾張藩最後の藩主となった徳川慶勝が創建したという違いがある。
 全国にこういった護國神社が70社ほどある。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「明治2年5月2日尾張藩主徳川慶勝が愛知郡川菜村(現在の昭和区)に社殿を造り、『旌忠社』と号け、戊申の役に戦死した藩士二十五柱の神霊を祀ったのが始まりで、その後の戦役事変等大東亜戦争に至るまでの御英霊並びに嘉永六年に遡る國事殉難者を合祀している。社名は、明治8年11月13日『招魂社』と改め、明治34年6月14日『官祭招魂社』、昭和14年4月1日『愛知縣護國神社』と改称し、戦後『愛知神社』と称したが、昭和30年4月13日現社名に復称した。鎮座地は、大正7年4月、大正天皇御即位大礼の名古屋離宮賢所奉安殿の下賜に西春日井郡金城村(城北練兵場内、現在の北区名城公園)に社殿として建立し御遷座。更に、昭和10年4月9日現社地に御遷宮するも、昭和20年3月19日の空襲により、大鳥居、社務所、手水舎を残し社殿炎上。昭和33年11月6日戦没復興造営が成り御遷座、現在に至る。昭和37年10月26日、天皇皇后両陛下の御参拝。昭和44年10月27日御鎮座百年大祭を斎行、これを機に『愛知縣護國神社奉賛会』を結成し、昭和57年10月8日には現社務所の竣功が成った。戦後、天皇陛下の弊帛料(弊饌料)御奉納は、昭和33年復興御遷座祭以来昭和60年10月28日斎行の終戦40周年臨時奉弊斎まで、6度を数えている」

 尾張藩14代・17代藩主を務めた徳川慶勝(慶恕)が、昭和区川名山に戊辰戦争で戦死した藩士ら25人の霊を祀るために旌忠社(せいちゅうしゃ)を建てたのが始まりだった。
 それは現在の川名山町で、聖霊病院の駐車場の一角に跡碑(地図)が建っている。どうして川名山だったのかはよく分からない。同じ昭和区に初代藩主の義直と慶勝を祀る尾陽神社があるのだけど、それが建てられるのはもう少し後のことだ。
 明治8年(1875年)に招魂社と改称し、更に明治34年(1901年)に官祭招魂社となった。
 大正7年(1918年)に城北練兵場があった場所に遷座(今の名城公園北園)。
 現在地に移されたのは昭和10年(1935年)で、昭和14年(1939年)に愛知縣護國神社と名を改める。戦時中は一時、愛知神社と称していた。
 昭和20年(1945年)の空襲で鳥居その他以外の社殿を焼失。
 戦後の昭和30年(1955年)に愛知縣護國神社に社名を戻し、復興が成ったのは昭和33年(1958年)のことだった。

 拝殿前の中央に太玉柱と呼ばれる大きな杉の柱が立てられている。他ではなかなか見ない光景だ。
 諏訪大社(web)の御柱際に代表されるように、古代より日本では柱に神が宿ると考えられてきた。神を一柱、二柱と数えるのもそこからきている。
 愛知縣護國神社では祀っている霊が多いということで、ここを拠り所にしてもらおうということなのだろう。

 境内に「皇紀二千六百年」と刻まれた石碑がある。
 皇紀(こうき)といっても今の時代に使われることはなく、意識している人もごく少ないだろうけど、今年2018年は皇紀でいうと2678年に当たる。
 これは神武天皇即位紀元のことで、西暦の紀元前660年1月1日を日本の紀元と定めて、ここを基準とした年号だ。
 皇紀の他、即位紀元、皇暦(すめらこよみ/こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)などともいう。
 そんなものは知らないという人も、祝日の建国記念の日の2月11日は、神武天皇即位日とされる紀元前660年1月1日を新暦に直したものなので、実は無関係ではない。
 どうしてこの日を神武天皇即位日としているかというと、『日本書紀』の神武天皇元年正月朔の条に書かれた、「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」という文章が元になっている。
 辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)に、天皇(すめらみこと)が橿原宮(かしはらのみや)で即帝したといった内容だ。
 紀元前660年といったら日本はまだ縄文時代(または弥生時代)なので現実味はないのだけど、江戸時代になってそんなことが言われ出して、明治になって制定されたのだった。
 遺跡や古墳などを元にした歴史学などからいうと、3世紀の応神天皇は実在しただろうけど、それ以前については不明というのが一般的な認識となっている。初代天皇とされる神武天皇の実在についても意見が分かれている。
 皇紀2600年というのは昭和15年(1940年)で、その2年前に始まった日中戦争のこともあり、国を挙げて各地で記念行事や式典が行われた。
 神武天皇即位の地とされる場所に明治23年に建てられた橿原神宮(web)の改築や陵墓の整備をはじめ、紀元節には日本中の神社で大祭が行われた。このとき紀元2600年の石碑を建てたところも多い。
 北京の北京神社や満州の建国神廟、パラオの南洋神社など、海外に神社を建てたりもした。神宮皇學館(web)が旧制専門学校から旧制大学に昇格したのもこのときのことだ。
 11月10日は宮城前広場において昭和天皇も出席して盛大な式典が催された。
 2040年に紀元2700年記念事業は行われるだろうか。

 時は流れて今の愛知縣護國神社は結婚式も行われるような普通の神社のようになっている。戦没者の関係者だけでなく、一般の参拝者も普通に訪れ、例祭に参加したりもする。
 ちょっとした桜の名所で、春になると桜見物に訪れる人も多い。
「僕達は常に、誰かが勝ち取った平和を、譲ってもらってるんだ。たとえそれが、一日限りの平和だったとしても、僕はその価値に感謝する」
『蒼穹のファフナー』の中でそんなセリフがあった。
 過去への感謝の気持ちがなければ、私たちが今当たり前のように受け取っている平和も危うい。

 

作成日 2018.2.8(最終更新日 2019.3.13)

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