神明社(中切町)

平安時代までさかのぼるのか?

中切神明社

読み方 しんめい-しゃ(なかぎり-ちょう)
所在地 名古屋市中切町2-21 地図
創建年 不明
社格等 村社・九等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセス 地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約40分
駐車場 なし
その他 例祭 10月11日
オススメ度

 昭和5年(1930年)から昭和7年(1932年)にかけて矢田川が付け替えられるまで、神社は矢田川右岸(北側)の堤防上にあった。
 福徳、中切、成願寺は矢田川と庄内川に挟まれた狭い土地にあり、川中三郷と呼ばれていた。
 しばしば水害に悩まされたため、堤防を高く築いてその上に神社を建てた。この神明社はその頃の名残を残しており、川が北に移った今も高台に建っている。
 坂道を登って境内に至り、本社は更にかさ上げして高いところに祀られている。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。中切町の産土神として崇敬あつく明治5年、村社に列格した」
 産土神というからには中切の中心神社だったということだろう。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の中切村の項にはこうある。
「社三ヶ所 内 神明 熊野権現 天神 社内八畝歩 堤外永符之内 前々除」
 神社は神明と熊野権現と天神の三社があり、すべて前々除とあるから1608年の備前検地以前にあった神社ということになる。
 天神は今も天神社(中切町)として現存している。熊野権現は現存しないので、神明社か天神社に移されたのではないかと思う。

『尾張志』(1844年)は、「神明社 八明社 下條中切村にあり」と書いている。下條中切村が中切村のことだと思うのだけど、八明社というのはどこのことをいっているのだろう。天神社のことだろうか。

『尾張徇行記』にはこうある。
「社人山田豊後守書上ニ、氏神神明社内一反一畝、此内七畝村除、二畝十五歩柳枯草場ナリ」
「乗円寺控熊野権現社内十五歩村除 天神社内一畝六歩御除地」
 乗円寺については、「乗円寺界内八畝年貢地、此寺慶長年中徳翁和尚開基也、宝暦十三年未年大長山ヲ改メ白馬山ト号ス、同五亥年法地ヲ再興ス、是永安寺十一世仏関和尚也、於今永安寺ノ末寺」
 創建は慶長年中(1596年- 1615年)であれば古い時代ではない。熊野権現は乗円寺の鎮守として祀られたとも考えられるのだけど、前々除となっているので熊野権現の方が先かもしれない。
『塩尻』(天野信景著)は弥陀薬師十一面の仏像は行基作で、これは熊野の神ではないかと書いている。

 ところで、この神明社は鳥居が明神鳥居だ。これは珍しい。神明社以外の神社が神明鳥居というのはよくあることだけど、神明社なのに明神鳥居というのは他では見たことがない。
 ここは本当にもともと神明社だったのだろうか。神明社創建についての情報がまったくないので、そうともいえないしそうでもないともいえない。

 矢田川の付け替え工事のいきさつなどについては福徳町八龍社のページに書いた。
 中切の地名は、福徳と成願寺に挟まれた真ん中から来ているとされる。
 この三郷は安食郷(あじきごう)と呼ばれ、平安時代末以降は安食一族がこの地をおさめていた。
 神明社を安食重頼(あじきしげより)が崇敬していたという話があるのだけど、それが本当であれば創建は平安時代かそれ以前までさかのぼることになる。その時代にこの地に神明社があったとは思えないので、神明社ではない違う神社だっただろう。
 安食重頼は源満政から七世孫というから源氏一族だ。源氏なら八幡社を祀るのが自然なことだけど、江戸時代の中切村に八幡社はなかった。

 安食重頼は1132年の墨俣合戦で戦功を挙げて名を高めた。
 ただ、その戦で息子の重義をはじめとして多くの家臣を失い、それらを弔うために聖徳寺(福徳町2丁目/地図)を建てた。
 安食重頼は聖徳太子を信奉しており、寺の名前はそこから来ているとされる。
 晩年は出家して1176年に65歳で没したと伝わっている。
 成願寺はもともと常観寺という寺号で、これは安食重頼の法号である常観坊隆憲から来ている。常観寺も安食重頼が創建したとされる。
 山田重忠が再興して成願寺と名を改めた。
 成願寺は『信長公記』の著者として知られる太田牛一が育った寺でもある。

 創建は実際いつだったのか、もともと神明社だったのかそうでなかったのか、明神鳥居は何を示しているのか。
 結局、それらの問いや疑問に対する答えは見つけられなかった。
 境内の空気感からしても神明社っぽくないと感じた。何をもって神明社っぽいとするかを説明するのは難しいのだけど。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

矢田川堤防上だった中切神明社

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