神明社(中切町)

平安時代までさかのぼるのか?

中切神明社

読み方 しんめい-しゃ(なかぎり-ちょう)
所在地 名古屋市中切町2-21 地図
創建年 不明
社格等 村社・九等級
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 アクセス

・地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約40分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 昭和7年(1932年)に矢田川が付け替えられるまで、ここは矢田川右岸(北側)の堤防上だった。
 福徳、中切、成願寺は矢田川と庄内川に挟まれた狭い土地にあり、川中三郷と呼ばれていた。
 しばしば水害に悩まされたため、堤防を高く築いてその上に神社を建てた。この神明社はその頃の名残を残しており、川が北に移った今も高台に建っている。
 坂道を登って境内に至り、本社は更にかさ上げして高いところに祀られている。

『愛知縣神社名鑑』の説明はあっさりしている。
「創建は明かではない。中切町の産土神として崇敬あつく明治5年、村社に列格した」

 江戸時代前期の1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』の中切村の項には、「社三ヶ所 内 神明 熊野権現 天神 社内八畝歩 堤外永符之内 前々除」とある。
 前々除は、1608年に行われた備前検地のときすでに除地(年貢免除地)になっていたということで、少なくとも1608年にはすでにあったということだ。
 現在の中切町に熊野権現はない。よそへ移されたか、廃社になったか、神明社に合祀されたか。
 この神明社は鳥居が明神鳥居だ。これはなかなか珍しい。神明社でもないのに神明鳥居と神明造の社というところはたくさんあるのだけど、神明社なのに明神鳥居というのは他では見た記憶がない。他にもあるのだろうけど多くないことは確かだ。コンクリート造の社は神明造になっている。
 熊野権現と合祀するとき熊野権現にあった鳥居をここに移したといった可能性はあるだろうか。

 矢田川の付け替え工事のいきさつなどについては福徳町八龍社のページに書いた。
 中切の地名は、福徳と成願寺に挟まれた真ん中から来ているとされる。
 この三郷は安食郷(あじきごう)と呼ばれ、安食一族がこの地をおさめていた。
 神明社を安食重頼(あじきしげより)が崇敬していたという話があるのだけど、それが本当なら創建は平安時代までさかのぼることになる。その時代にこの地に神明社があったとは思えないので、神明社ではない違う神社だっただろう。
 安食重頼は源満政から七世孫というから源氏一族だ。源氏なら八幡社を祀るのが自然なことだけど、江戸時代の中切村に八幡社はなかった。

 安食重頼は1132年に起こった墨俣合戦で戦功を挙げて名を高めた。
 その戦で息子の重義をはじめとして多くの家臣を失い、それらを弔うために聖徳寺(福徳町2丁目/地図)を建てた。
 安食重頼は聖徳太子を信奉しており、寺の名前はそこから来ている。
 晩年は出家して1176年に65歳で没したと伝わっている。
 成願寺はもともと常観寺という寺号で、これは安食重頼の法号である常観坊隆憲から来ている。常観寺も安食重頼が創建したとされる。
 山田重忠が再興して成願寺と名を改めた。
 成願寺は『信長公記』の著者として知られる太田牛一が育った寺でもある。

 この神社が平安時代に創建されたという可能性はあるのだろうか。ただ、少なくとも戦国時代にはすでにあったと考えてよさそうだ。
 もともと神明社だったのか、そうでなかったのか。明神鳥居は何を示しているのか。
 境内の空気感からしても神明社っぽくないと感じた。何をもって神明社っぽいとするかを説明するのは難しいのだけど。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

矢田川堤防上だった中切神明社

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