熊野社

名古屋に熊野社は意外に少ない

中村熊野社入り口

読み方 くまの-しゃ
所在地 名古屋市中村区権現通3丁目37番地 地図
創建年 1712年(江戸時代中期)
社格等 村社・十二等級
祭神

伊邪那美命(いざなみのみこと)

仁徳天皇(にんとくてんのう)

アクセス

・地下鉄桜通線「中村区役所駅」から徒歩約10分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 全国に3,000社ほどあるとされる熊野社が、名古屋には意外と少ない。名古屋から和歌山までは近いようで遠いのだけど、距離だけの問題ではないだろう。名古屋で熊野信仰があまり浸透しなかった理由は何だったのだろう。

 紀伊半島の南東、三重県と奈良県の県境に近い和歌山県に熊野三山はある。
 熊野三山といっても3つの山があるというわけではなく、熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社の3つの神社を総称してそう呼んでいる。
 のちに熊野信仰と呼ばれるものはもともと熊野の自然崇拝から発したものだった。本宮は熊野川を御神体とし、速玉は神倉山のごとびき岩を神の依代としていた。那智の滝を御神体として祀るようになるのは少し後のことで、『延喜式』には那智大社は載っていない。ここは修業の場という意味合いが強かったとされる。それぞれ別の信仰で、一体化するのは後の時代のことだ。
 この自然崇拝と祖先神信仰が結びつき、修験者が多く山に入って修業をしたため密教とも習合した。修験が全国各地で熊野信仰を広めるとともに一躍熊野の名を知らしめたのは、平安時代に入って上皇たちが熊野を詣でたからだった。
 熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇とされる。907年のことだ。その後、992年の花山法皇、1090年の白河上皇と続き、鳥羽上皇は21回、後白河法皇は34回も熊野詣でをしている。
 ただ、天皇が熊野に詣でた記録はない。京から熊野まで往復すると一ヶ月はかかったから、そんなに都を開けていられないということだったのだろう。
 熊野の山は女人禁制ではなかったので女院たちも多く訪れている。
 あの時代、あの険しい山道を、ひと月かけて歩いてまで行かなければならないと思った原動力は何だったのだろう。熊野は浄土につながっていると信じられたいというけど、それだけだったのだろうか。
 平安時代後期には貴族たちもこぞって熊野を詣でた。日頃運動などしていなかったであろう貴族たちにとっては死ぬような思いだったんじゃないだろうか。
 鎌倉時代になると武士なども熊野を訪れるようになり、江戸時代に入るとそれが庶民にまで広まった。蟻の熊野詣でという言葉はよく知られている。伊勢参りと熊野詣でをセットにすることもよくあった。
 熊野神社が日本各地に増えたのは、やはり江戸時代以降のことだっただろう。

 ここ中村の熊野社が創建されたのは江戸時代中期の1712年のことという。
『愛知縣神社名鑑』には「上米野の産土神として崇敬あつく」とあるだけで、誰が創建したのかは書かれていない。村人主導なのか、もっと上なのか、そのあたりを想像で言い当てるのは難しい。熊野を詣でた尾張藩の誰かかもしれないし、修験者だったか、豪商とかかもしれない。
 祀ったのは当然、神仏習合の熊野権現だっただろう。今祭神となっているイザナミではなかったはずだ。
 本宮大社では、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)を主祭神とし、速玉大社では熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としている。那智大社の祭神は熊野夫須美大神とする。
 速玉大神は男神で夫須美大神は女神とし、ごとびき岩を男性の象徴、那智大滝を女性の象徴と考えるというのが一般的な説となっている。熊野の神とは何なのかというのは非常に複雑で難しいので、ここでは書ききれない。
 イザナミが死んだとされる場所は全国にあり、熊野にもその伝承地がある。熊野市有馬町にある花の窟と呼ばれる岸壁がそれだ。
 そのこともあって、夫須美大神をイザナミと同一視するようになり、明治の神仏分離令以降はイザナミを祭神とした熊野社も多い。中村の熊野社もそうだ。

 神社は茶ノ木島公園という大きな公園の一角にある。この公園は昭和14年(1939年)に整備されたもので、平成23年(2011年)に米野公園の一部として防災公園となった。
 熊野社は現在もけっこう広い境内を有しているのだけど、公園ができる前はもっと大きかったのだろう。
 明治42年(1909年)に字若宮裏にあった若宮八幡社を本社に合祀したものの、昭和26年(1951年)に若宮八幡社が分離独立したという話は若宮八幡社のところでも書いた。
 ただ、分離したあとも若宮八幡社の祭神だった仁徳天皇は本社で祀っている。
 境内社の子安社では木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメ)を祀る。
 熊野社から少し後の1733年(享保18年)に創建されたものという。
 安産祈願や子供の無事な成長を願ってこちらの社を参る人も多いようだ。

 最初に挙げた疑問、名古屋ではどうして熊野信仰が浸透しなかったのかという問いに対する答えは見えない。名古屋では御嶽信仰や白山信仰が強かったから競合で負けたという可能性もあるだろうか。ただ、愛知県まで広げるとそれなりに熊野社はあるので、名古屋で少ないのはたまたまかもしれない。あるいは別の決定的な理由があったのだろうか。
 熊野は、明治はじめの神仏分離令と、明治後期の神社合祀政策によって徹底的に解体された歴史を持つ。全国各地の熊野社も廃止になったり合祀されたりしたものが多かっただろう。名古屋も江戸時代まではもっと多くの熊野社があったはずだ。
 それにしても、ここまで少ない理由が思いつかない。別の熊野社を訪ねるとその理由の一端でも分かるだろうか。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中村区の熊野社はなかなかに立派な神社だ

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