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熊野社(権現通)


名古屋に熊野社は意外と少ない



中村熊野社入り口

読み方くまの-しゃ(ごんげんどおり)
所在地名古屋市中村区権現通3丁目37番地 地図
創建年1712年(江戸時代中期)
旧社格・等級等指定村社・十二等級
祭神伊邪那美命(いざなみのみこと)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
アクセス地下鉄桜通線「中村区役所駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他例祭 10月20日
オススメ度

 全国に3,000社ほどあるとされる熊野社が、名古屋には意外と少ない。名古屋から和歌山までは近いようで遠いのだけど、距離だけの問題ではなさそうだ。何らかの理由で名古屋では熊野信仰が流行らなかったのか、明治以降に廃れてしまっただけなのか。
 そのあたりの要因や事情はよく分からない。



 紀伊半島の南東、三重県と奈良県の県境に近い和歌山県に熊野三山はある。
 熊野三山といっても3つの山があるわけではなく、熊野本宮大社(web)、熊野速玉大社(web)、熊野那智大社(web)の3つの神社を総称してそう呼んでいる。
 のちに熊野信仰と呼ばれるものはもともと熊野の自然崇拝から発したものだった。本宮は熊野川を御神体とし、速玉は神倉山のごとびき岩を神の依代としていた。那智の滝を御神体として祀るようになるのは少し後のことで、『延喜式』神名帳(927年)には那智大社は載っていない。ここは修業の場という意味合いが強かったとされる。
 それぞれ別の信仰で、一体化するのは後の時代のことだ。
 この自然崇拝と祖先神信仰が結びつき、修験者が多く山に入って修業をしたため密教とも習合した。修験が全国各地で熊野信仰を広めるとともに熊野の名を知らしめたのは、平安時代に入って上皇たちが熊野を詣でたからだった。
 熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇とされる。907年のことだ。その後、992年の花山法皇、1090年の白河上皇と続き、鳥羽上皇は21回、後白河法皇は34回も熊野詣でをしている。
 ただ、天皇が熊野に詣でた記録はない。京から熊野まで往復すると一ヶ月はかかったから、そんなに都を開けていられないということだったのだろう。
 熊野の山は女人禁制ではなかったため、女院たちも多く訪れている。
 あの時代、あの険しい山道を、ひと月かけて歩いて行かなければならないと思った原動力は何だったのだろう。熊野は浄土につながっていると信じられていたというけど、それだけだったのだろうか。
 平安時代後期には貴族たちもこぞって熊野を詣でた。日頃運動などしていなかったであろう貴族たちにとっては死ぬような思いだったんじゃないか。女流歌人の和泉式部も熊野を詣でたとされる。
 鎌倉時代になると武士なども熊野を訪れるようになり、江戸時代には庶民にまで広まった。蟻の熊野詣でという言葉はよく知られている。伊勢参りと熊野詣でをセットにすることもよくあった。
 熊野社が日本各地に増えたのは、やはり江戸時代以降のことだっただろう。



 ここ米野の熊野社が創建されたのは社伝によると江戸時代中期の1712年のことという。
 しかし、『寛文村々覚書』(1670年頃)にある「権現」が熊野権現のことだとすると、前々除とあることからも江戸時代以前にすでにあったことになる。
 神社があるのは江戸時代の米野村で、『尾張名所図会』は「文和三年四月二十三日【熱田神領目録】に、愛智郡薦野郷とあるが古名にて、こもとこめと近ければ、轉じて今米の字を用ふるなり」と書いており、文和3年は南北朝時代の1354年だから、村としての歴史はそれ以前までさかのぼるということだ。江戸時代まで神社がなかったはずがない。
 ただし、『覚書』の権現が熊野権現のこととは限らない。
 江戸時代の米野村には、熊野権現、若宮八幡(若宮八幡社)、金山社(金山神社)があった。



『愛知縣神社名鑑』には「上米野の産土神として崇敬あつく」とあるだけで、誰が創建したのかは書かれていない。村人主導だったのか、もっと上なのか、そのあたりを想像で言い当てるのは難しい。江戸時代創建であれば、熊野を詣でた尾張藩の誰かかもしれないし、修験者だったか、豪商とかかもしれない。
 祀ったのは神仏習合の熊野権現だっただろう。イザナミという意識ではなかったはずだ。
 本宮大社では、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)を主祭神とし、速玉大社では熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神としている。那智大社の祭神は熊野夫須美大神とする。
 速玉大神は男神で夫須美大神は女神とし、ごとびき岩を男性の象徴、那智大滝を女性の象徴と考えるというのが一般的な説となっている。熊野の神とは何なのかというのは非常に複雑で難しいので、ここでは書ききれない。
 イザナミが死んだとされる場所は全国にあり、熊野にもその伝承地がある。熊野市有馬町にある花の窟と呼ばれる岸壁がそれだ。
 そのこともあって、夫須美大神をイザナミと同一視するようになり、明治の神仏分離令以降はイザナミを祭神とした熊野社も多い。中村の熊野社もそうだっただろう。



 神社は茶ノ木島公園という大きな公園の一角にある。この公園は昭和14年(1939年)に整備されたもので、平成23年(2011年)に米野公園の一部として防災公園となった。
 今昔マップの明治から大正時代にかけての地図を見ると、田んぼの中の鎮守の森の中で祀られていたようだ。
 昭和に入ってあたり一帯が区画整理されて住宅地の中に組み込まれた様子が見てとれる。
 明治42年(1909年)に字若宮裏にあった若宮八幡社を本社に合祀したものの、昭和26年(1951年)に若宮八幡社が分離独立したという話は若宮八幡社のところでも書いた。
 分離したあとも若宮八幡社の祭神だった仁徳天皇は本社で祀られている。そのため、社号標も熊野社と若宮八幡社と両方建っている。
 境内社の子安社では木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメ)を祀る。こちらは1733年(享保18年)に創建されたと伝わる。
 安産祈願や子供の無事な成長を願ってこの社を参る人も多いようだ。




作成日 2017.5.17(最終更新日 2019.4.16)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中村区の熊野社はなかなかに立派な神社だ

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