天王明神(錦町)

稲永遊廓の忘れ形見か

錦町天王明神

読み方 てんのう-みょうじん(にしきまち)
所在地 名古屋市港区錦町3 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス あおなみ線「稲永駅」から徒歩約13分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 錦神社地図)とは130メートルほどしか離れてないのだけど、奥まった場所の角地にあって地図上の表記もないので、その存在に気づきづらい。夏ということもあって、入り口から見るとジャングル状態になっている。神社好きでなければ好き好んで立ち入りたい神社ではないかもしれない。
 しかし、神社好きにはかえってたまらない。ここはなんかすごくものものしい空気感を漂わせてるなと興味をそそられる。

 鳥居の額に天王明神とある。
 天王というからには牛頭天王を祀っていたのだろうと思う。今は須佐之男に変えているか、もしくはそのまま牛頭天王を祀るとしているのか。
 明治の神仏分離令で、それまで牛頭天王を祀っていた天王社は須佐之男を祀る須佐之男社や津島社に変えられた。明神号も原則禁止された。
 それでも今も天王社を称しているところは少なくない。特に神社本庁に入っていない小さな神社はそうだ。
 ただ、天王明神を称しているところはあまりないのではないか。私は初めて見た。

 明神(みょうじん)は『延喜式』で定められた「名神」が転化したと考えられており、平安時代以降に使われるようになった。
 その後、一般化して、なんでもかんでも明神と呼ぶようになっていく。神道の吉田家が乱発したのもその一因とされる。
 よく知られるのが神田明神や春日大明神、鹿島大明神などで、神に対する尊称でもあり、親しみを込めた言い方でもあった。熱田大明神や伊勢大明神などと呼ばれた時代もあった。
 本地垂迹説が流行ると、明神の他に権現もよく使われるようになる。神は仏が仮の姿で現れたものという考え方だ。
 秀吉は死んで豊国大明神となり、家康は明神にするか権現にするかでもめて、結局東照大権現となった。
 明治の神仏分離令(神仏判然令)で明神や権現は使わないようにという命が出たのは、江戸時代までには神仏習合の仏教側の用語と認識されていたためだ。
 ただ、今でも神田神社などは神田明神といった方が通りがいいように、一部通称として使われている。

 この神社に関しての情報はほぼないため、誰がいつ建てたのか詳しいことは分からない。
 ただ、鳥居と石柱の裏にちょっとしたヒントがある。
 鳥居の裏には「昭和六十一年三月吉日建立 中川区尾頭橋 平松義一 文尾」とある。
 石柱の裏には「昭和五十年三月 港区錦町一丁目□□ 中川区八幡町六(?)丁目□□」と彫られている。
 ここ錦町は明治末に熱田遊廓を移した稲永遊廓があったところだ。
 中川区八幡町というと尾頭橋近くの花街があったところで、戦後は赤線地帯になって八幡園と呼ばれていた。
 そこから推理すると、この神社は稲永遊廓と八幡園の関係者が祀ったのが始まりではないかと思いつく。ただし、鳥居や石柱の日付が昭和50年や昭和61年と新しいから、それらの子孫の方達が奉納したものかもしれない。

 鳥居をくぐって正面右手に神明造の社があり、向かって左手に赤く塗られたお堂がある。入り口近くには別の神明造の社もある。
 それぞれに供えられた榊や花は新しく、供え物もしてある。日常的にお世話をしている人がいるようだ。
 これらの社やお堂は他のところにあったものを集めたとも考えられる。
 稲永遊廓があった頃は北西の角地近くに当たる。たまたまかもしれないけど、あえてここに置いた可能性もある。
 この神社は、稲永遊廓の忘れ形見といえるかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

かつて稲永遊廓だったところにある錦町天王明神

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