本願寺町にある八幡社。江戸時代ここは本願寺村だった。 少し北に高田町があり、そこは江戸時代の高田村だったところだ。 高田村は如来寺という高田宗の寺があったことが村名の由来だと津田正生は『尾張国地名考』の中で書いている。 同書によると、本願寺村はもともと丸林村という名で、本願寺門徒が多かったために本願寺村と称するようになったとする。
『尾張志』(1844年)の本願寺村の項を見ると八幡社についてこう書いている。 「西の島といふ所にあり此地の本居神なり」 本居神というのはおそらくもともと居た神といった意味だと思うのだけど、本居を辞書で調べても本居宣長(もとおりのりなが)のように人名としての使用例以外に意味は載っていない。本拠地のようなものとはまた別ということだろうか。読み方も、「もとおり」なのか「ほんきょ」なのか分からない。 本願寺村の成立はどこまでさかのぼれるだろう。江戸時代初期か、戦国時代か、それ以前なのか。 『寛文村々覚書』(1670年頃)に八幡社は載っており、前々除となっているから、1608年の備前検地のときにはすでにあったと考えられる。 いずれにしても、神社は村の成立とともに創建された可能性が高そうで、そうなると村の成立がいつだったかということになる。 本願寺町の北には西ノ割町があり、これは西の島が転じたものだろうか。
本願寺村の他の神社としては、東の島に白山社が、西の島に秋葉社があった。中島の山神社と飴屋の山神社はともに廃止になったと『尾張志』にある。 この白山社は明治40年(1907年)にこの八幡社に合祀された。 八幡社入り口の社号標には、八幡神社・白山神社と並んで刻まれており、地図にも白山社八幡社と出ている。 神社本庁登録の正式名は八幡社となっている。
『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。 「権現、八幡、山ノ神二社 前々除 薬師寺支配ス」 権現というのは白山権現のことだろう。 薬師寺は神社の100メートルほど東に現存している(地図)。江戸時代前期の寛文元年(1661年)創建と伝わる真言宗の寺で、高野山正覚院末寺だったようだ。その後、大須宝生院(大須観音/web)の末寺になったらしい。 この寺が江戸時代には力を持っていて、本願寺村にある神社を支配していたようだ。
『愛知縣神社名鑑』にちょっと面白いことが書かれている。 「白山社の跡地の処分代金をもって豊明村に神饌田を設け神饌を自給していたが不在地主として戦後没収せられた。現境内は昭和11年耕作地整理の余剰分223坪を寄進された」 明治40年に白山社を八幡社に合祀したため、境内地を売って得た金で豊明に土地を買って神饌田にしていたというのだ。神饌田(しんせんでん)というのは祭祀に使うための米を育てる田んぼのことをいう(もちろんそれだけではなく自分たちも食べる)。 その田んぼは戦後に地主不在ということで没収されたらしい。 八幡社の境内地については、昭和11年に耕作地を整理したときに余った223坪をもらったということだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、八幡社の場所は今と同じところにあるので、少なくとも明治中頃以降は移っていない。東の島の白山社は、現在の市営瑞穂荘の南(地図)にあったようだ。
境内は大木が生い茂って鎮守の森の様相を呈している。 その中に瑞穂区内では第一号となった名古屋指定樹木の柏(かしわ)の木がある。樹齢は推定300年以上という。名古屋市内で柏の巨木というのは珍しいんじゃないかと思う。 それ以外にも3本の名古屋市保存樹がある。 お常稲荷社の赤い鳥居が存在感を放ち、地蔵や庚申塔などもあり、村の中心の神社だったことが分かる。 村人たちにとっては應神天皇やククリヒメがどうこうではなく、村の守り神としての八幡神だっただろう。
作成日 2017.9.11(最終更新日 2019.3.25)
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