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神明社(江松5)


戦国時代の江松村はどんな村だったのだろう



江松神明社

読み方しんめい-しゃ(えまつ5)
所在地名古屋市中川区江松5丁目2351 地図
創建年不明
旧社格・等級等村社・十四等級
祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセスJR関西本線「戸田駅」から徒歩約50分
駐車場 なし
その他例祭 10月5日
オススメ度

 江松(えまつ)5丁目にある神明社。
 江松の地名が残るところは、かつて江松村だったところだ。
 江松村について津田正生は『尾張國地名考』の中でこう書いている。
「榎津と江松とは其間八町を隔つといへども舊は一圓なるか 江松も榎津も並にもとは衣那津と呼しを後世二村になりておのおの今の名に呼にもあらんか」
 江松と榎津はもともとひとつの村で、衣那津と呼んでいたのを、後に分かれたとき江松と榎津に呼び分けたのではないかといっている。



『尾張志』(1844年)には「神明ノ社 江松村にあり」とあり、『寛文村々覚書』(1670年頃)は「神明 社内弐畝弐拾歩 前々除 助光村 忠太夫持分」と書いている。
『尾張徇行記』(1822年)はやや詳しい。
「神明祠界内二畝廿歩前々除 府志ニモアリ」
「助光村神明祠官二村式部書上帳ニ、神明社境内二畝二十歩御除地、其外ニ田九畝十歩村除 此社勧請ノ草創年暦ハ知レズ、再建ハ文禄元辰年ノ由」
 助光村の祠官が管理した社で、創建年は分からないながらも文禄元年に再建したという記録が残っていたようだ。文禄元年は1592年に当たる。
 中川区は伊勢の神宮(web)の荘園があった関係で古い神明社が多い。この神明社もそうとは限らないのだけど、少なくとも戦国時代にはもう建っていたのは間違いなさそうだ。
 江松村は江戸時代前期の1640年に村の南が干拓されるまでは海辺の村だった。干拓は1640年に尾張藩主・徳川義直の命で行われたもので、後に東福田新田と呼ばれることになる。
 神明社を建てた頃は、江松村は漁村だっただろうか。離島でも神明社はあるから、漁村と神明社の組み合わせは不自然でもない。



 境内には立派な由緒書の碑があり、「永世元年(1504)鎮守の社として天照皇大神を奉斎し、宝永元年(1704)に現在地に神明社を建立した」と刻まれている。
 永正(えいしょう)と永世を間違えるという残念な間違いは、もはや取り返しがつかない。
 それはともかくとして、1504年というと戦国時代まっただ中だ。そんな時代に「天照皇大神を奉斎し」というのはどういう状況だったのだろう。
 現在地に神明社を建立したのが1704年というのだけど、前々除となっているから1608年の備前検地のときはすでに除地だったということだ。なので、1704年に現在地に移したのではなく元からここで祀っていた社を建て直したということではないかと思う。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると神社は集落の中程にあったことが分かる。
 1704年なら東福田新田が完成してから50年以上が経っている。その頃までには江松村も純農村になっていただろう。
 それにしても、戦国時代の村人たちにとってアマテラスというのはどういう存在だったのかを上手くイメージすることができない。



 江松の神明社の北東200メートルほどのところに隋縁寺(地図)というお寺がある。この附近に戦国時代、江松城という城があったと伝わっている。
 城主は織田信長に仕えた土方治兵衛だった。
 東西南北50-60メートルほどというから、ちょっとしたお寺くらいの大きさだ。石垣や天守を持たない戦国時代の館城だっただろう。
 土方治兵衛については、天正二年(1574年)に信長の命で助光村の称円寺を焼き払ったという記録が残っている。
 これは浄土真宗の寺で、住職が石山合戦に参戦していたときの出来事だった。
 本能寺の変のときに遅れて駆けつけたときにはすでに信長の姿はなく、土方治兵衛はその場で自害したという話だ。
 そのまま江松城は廃城になってしまったようだ。



 江松の神明社は、昭和10年(1935年)に大改築を行ったものの、第二次大戦や東南海地震、伊勢湾台風などで被害を受け老朽化したため、平成10年に全面的な改築が行われた。
 由緒の石碑に「平成九年二月 境内整理、本殿、祭門殿、拝殿の改築に着工し、平成十年十月落成奉祝祭を齋行する」とある。
 ここでも祭文殿を祭門殿とする二つ目の致命的な間違いを犯してしまっている。宮司も江松自治会の誰も間違いに気づかなかったのだろうか。どうにかして直した方がいいと思うのだけど。




作成日 2017.11.29(最終更新日 2019.7.10)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

昔も今も江松の神明社

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