名鉄瀬戸線の大森・金城学院前駅を出て金城学院大学へ向かう坂道の途中にある。大学に向かう女子大生の関心を引いている様子はない。 奥の院というから本社がどこかにあるはずで、位置的にいうと大森八劔神社(地図)がそうかとも思うのだけど、八劔神社は昭和2年にここに移るまでは今の大森中央公園の西(地図)にあったから、たぶん関係ない。 かつてこの場所にあった溜め池に弁天を祀ったのが始まりとされる。 今の弁天が丘の町名は、以前の字名の弁天洞から来ているもので、それはこの弁天が祀られていたことに由来する。 奥の院ということでいうと、少し南西にある大森寺(だいしんじ/地図)から見て奥の院ということかもしれない。 尾張藩初代藩主の義直は、瀬戸の水野方面に鷹狩りによく行っており、その途中にあった大森村で村娘を見初めて城に連れ帰り、生まれた子供が二代藩主の光友になった。 1634年(寛永11年)に光友の母が江戸で亡くなると光友は小石川の傳通院(web)に菩提を弔うための歓喜院を建て、1661年(寛文元年)に故郷の大森村に移して大森寺(web)と名づけた。 尾張藩主の母を弔う寺ということでかなり立派だったのが『尾張名所図会』(1844年)の絵図からも見てとれる。絵図には鎮守が描かれているのだけど、どんな神を祀ったものかは分からない。現在の大森寺にも社名不明の社があるので、それだろうか。 「たやすなよ大森寺の鐘の声たとへこの世は変りゆくとも」という光友の色紙が寺宝として伝わっている。
弁天を祀った溜め池は、今昔マップを見ると確認できる。東にある雨池ほど大きな溜め池ではなく、ごく小さなものだ。 ここから北はかなり険しい丘陵地帯で農地にはできなかったはずで、南のわずかな平地を耕作地としていたようだから、そこで使うための水だっただろう。こういった溜め池は江戸時代に造られたものが多いので、ここもそうだっただろうか。だとすれば弁天は江戸時代に祀られた可能性が高い。 今昔マップの1976-1980年の地図から溜め池は消えてしまうので、その頃に埋め立てられたのだろう。
弁才天はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが仏教に取り込まれて天部のひとつとなったものだ。 日本に入ってきて神道とも習合し、才能を司る神、芸能の女神として信仰の対象になった。美の女神という一面を持ち、宗像三女神のうちの市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されるようになった。 その後、才は財に通じるということで、弁財天とも表記され、七福神のひとつにもなった。 池などの水辺や島で祀られることが多いのは、古代インドで川の女神とされたこととも無関係ではなさそうだ。水の神、農業の神でもあった。 膝を立てて琵琶を弾いている姿で描かれることが多い。古くは8本の手に弓や刀などの武器を持っており、戦の女神という面もあった。 女神像とは別に宇賀神(うがじん)とも集合して独自の姿になった。宇賀神は弁才天の頭の上にとぐろを巻いた蛇の姿をしており、宇賀弁才天と呼ばれた。 弁才天信仰自体は奈良時代からすでに始まっていたようで、平安時代項、水辺で多くの弁天祠が祀られるようになった。 竹生島の宝厳寺・竹生島神社(web)や江ノ島の江島神社(web)、宮島の大願寺(web)、天川村の天河大弁財天社(web)などがよく知られている。 弁天様は嫉妬深いからカップルでデートに行くと別れるなんて都市伝説を聞いたことがある人もいるだろう。 明治の神仏分離令で寺と神社に分かれ、神社になったところは市杵嶋姫命を祭神としたところが多い。
江戸期の『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張志』(1844年)の大森村に弁天のことは書かれていない。神社と呼べるような規模のものではなかったのだろう。
境内には堀が掘ってあり、かつては水が入っていたようだ。 入り口には鳥居があり、社というか小さなお堂の中には陶製らしい弁財天像が祀られている。その前には陶製の狛犬が二体いて、榊も供えられているから、やはり神社ということになるだろうか。神仏習合したままといえばそうなのか。
どこの奥の院なのかはよく分からないのだけど、溜め池に祀られた弁天が始まりということは確かなようだ。 守山区は天王社にしろ、龍神社にしろ、こういう小さな社がわりと多く残っている。そういった社を訪ねていていけば土地の歴史に触れることができる。
作成日 2017.12.15(最終更新日 2019.1.21)
|