石清水八幡宮から勧請した名古屋新田の鎮守 | |
読み方 | まむしがいけ-はちまん-ぐう |
所在地 | 名古屋市千種区向陽1丁目3-32 地図 |
創建年 | 1624-1643年頃(江戸時代前期) |
旧社格・等級等 | 指定村社・八等級 |
祭神 | 應神天皇(おうじんてんのう) |
アクセス | 地下鉄東山線「池下駅」から徒歩約6分 駐車場 あり |
その他 | 例祭 10月14日 |
オススメ度 | * |
地下鉄東山線の池下駅(地図)の北300メートルほどの高台にある蝮ヶ池八幡宮。 住所でいうと向陽1丁目になる。 この神社の創建と遷座のいきさつが上手く飲み込めず困っている。謎があるとかではなく、遷座についての経緯と年数がどうにもはっきりしない。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社殿(ママ)に寛永年中(1624-1643)名古屋護新田(ママ)の大庄屋兼松源蔵が神託により山城国男山八幡宮に参籠分霊を戴き当地の守護神として屋敷内に創祀したが日夜神威灼熱なるにより里人の願いを入れて現在の社地に社殿を造営御遷座し村中の総鎮守と仰ぎ祀る。 明治5年10月、村社に列格する。明治40年10月26日、供進指定となる。 日毎に社頭隆昌せしが昭和20年6月26日の空襲により社殿を焼失する。昭和34年9月の台風にも被災あれど漸次復旧した」 兼松源蔵というのは名古屋新田の開発に尽力した尾張藩士で大庄屋だった人物だ。 1610年から始まった名古屋城(web)築城は1612年の天守築城によって一応の完成を見た(本丸御殿を含めて最終的に完成したのは1615年)。 城下町は南から東へ延び、人や家は増え、新田開発の機運が高まった。そのとき、まだ手つかずの原野だった古井村に目を付けたのが兼松源蔵だった。 名古屋城からここまでは東南方向へ約5キロほど離れている。JR中央本線の大曽根駅から千種駅の間は谷になっていて、そこで名古屋台地がいったん途切れる。谷がかつての矢田川の流路だった時代もある。その東は千種台と呼ばれる台地上の平地で、その東には東部丘陵が広がる。 台地の上ということで水が乏しく、近くに川がないことから水田には向かない土地だった。初めは主に山林を切り開いて畑にしていた。 しかし、それでは発展性が低いということで、兼松源蔵は尾張藩士の小塚源平とともにあちこちに溜め池を作り、新田開発に乗り出すことにする。 そうして、千種区北部から東部、昭和区から瑞穂区にかけての広い範囲を開墾していった。 現在、東山動物園にある上池も兼松源蔵が掘った池のひとつで、かつては源蔵池と呼ばれていた。東山植物園にある武家屋敷門は兼松家の屋敷にあったものを移築している。 その兼松源蔵が神託を受けて山城国男山八幡宮に参籠し、分霊を戴いて名古屋新田の守護神とすべく屋敷内に祀ったのが始まりと『愛知縣神社名鑑』は書いている。 山城国男山八幡宮というのは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう/web)のことで、参籠(さんろう)というのは一定期間昼も夜も寺社に籠もって神仏に祈願することをいう。 最初に創建したのは屋敷内ではなく、西八幡社(蝮ヶ池)の地だったという話がある。 その頃、兼松源蔵は名古屋城下に暮らしていたから、屋敷内というのであれば名古屋城下の屋敷の中ということになるのだけど、西八幡社が元地となると話は違ってくる。 現在、西八幡社があるのは住所でいうと内山1丁目(地図)で、蝮ヶ池八幡宮の西1キロほどの場所だ。しかし、西八幡社はもともとこの地にあったのではなく昭和になって移されたのだという。その元地がどこだったのか調べがついていない。 兼松家は新田開発が進んだ1781-1788年頃、現在の仲田あたりに居を移したとされる(明治末に兼松家は転居したため跡地は残っていない)。 実は兼松家の当主は代々、源蔵を名乗ったため、どの時代の兼松源蔵のことかよく分からないというのが話を余計にややこしくしている。 村人の頼みで屋敷内にあった八幡を外に出して名古屋新田の鎮守としたのがいつのことなのかも分からない。兼松家が仲田に移ったあとということであれば、1780年代以降ということになる。 しかし、話は更に混乱していて、西八幡社の由緒書きには、「当神社は1633年に蝮ヶ池八幡大神様を一時仮安置された由緒ある神社である」と書かれていて、はてな? となる。 兼松源蔵が最初に西八幡社の元地に八幡を祀ったということなのか、それとも1633年に一時的に預かった形になったということなのか。仮遷座ということなのか、すでに西八幡社があって、西八幡社で蝮ヶ池八幡を預かったということなのだろうか。 まだまだ話は混乱していて、実はこの西八幡社はもともと八幡ではなかったかもしれないのだ。 そのあたりは西八幡社のページに書いたのだけど、昭和27年(1952年)に山口県下関市の忌宮神社(いみのみやじんじゃ)に出向いて仲哀天皇と神功皇后を迎えて祀ったときに西八幡社となったのかもしれない。 蝮ヶ池が造られたのは万治年間(1658年-1680年)のことで、もし、それ以前に八幡が今の地に祀られていたとしても、蝮ヶ池八幡と呼ばれるようになったのは万治年間以降ということになる。 蝮ヶ池は灌漑用の大きな溜め池で、南北200m東西100mほどあった。 今昔マップを見るとその場所と大きさが分かる。現在の池下駅の北側にあった。池下の地名は、この蝮ヶ池の下(底)から来ている。 蝮ヶ池は蝮(マムシ)が多くいたからという説と、末森城の西にあることから真西が池と呼ばれ、そこから転じたという説がある。あるいは、真西に名古屋城があったからという説もあるのだけど、実際のところ名古屋城は真西ではなく北西なので違うだろう。 とりあえず言えることは、兼松源蔵が山城国男山八幡から勧請して屋敷内もしくは屋敷の近くに祀ったのが1624-1643年で、西八幡社に一時的に安置されたのが1633年、蝮ヶ池が築造されたのが1658-1680年、村人の願いを受けて名古屋新田の鎮守となった年数は不明ということだ。 西八幡社は昭和27年(1952年)に蝮ヶ池八幡宮の飛び地境内社とされた。 その西八幡社以外にもうひとつの飛地境内社がある。蝮ヶ池八幡宮と池下駅の間の池下2丁目にある小さな龍神社と弁天社(地図)がそれだ。 大正10年(1921年)に宅地開発で蝮ヶ池が埋め立てられることになり、埋め立て工事をしていたところ、事故が相次ぎ、工事の責任者が倒れてうなされるということが起きたため、池の底だった場所に水の神である竜神(池主大神)を祀ったのが龍神社だ。 それでも足りないといけないということで、弁才天と同一視されたイチキシマヒメ(市杵島姫命)を祀る弁天社も建てて、怒りを鎮めたのだった。 蝮ヶ池八幡宮は昭和20年の空襲で社殿を焼失して、昭和26年に再建されている。更に昭和34年の伊勢湾台風でも被害を受けた。 ここは海や川からは遠いのだけど、高台にあるので風をまともに受けただろうか。 現在、地下鉄東山線が通っている上の道路をかつて市電の覚王山線が走っていた。中区の西裏町停留場から覚王山停留場を結ぶ路線で、明治44年に開通した。 これは明治37年に覚王山に日暹寺(にっせんじ/今の日泰寺/web)が創建されたため、参拝客用の性格が強い路線だった。 池下はその通り道ということもあって、戦前には住宅地として発展を遂げていた。1932年以降の今昔マップで発展の変遷を辿ることができる。 ひと昔前まではこれといった特徴のない街という印象だったのだけど、近年は高層マンションが建ち、高級店が集まるエリアに生まれ変わった。池下が蝮ヶ池の下だったなんてことを知らない住人も増えているんじゃないだろうか。 蝮ヶ池八幡宮と西八幡社についてはまだはっきりしない点が残ったので、今後も調査を続けたい。西八幡社の元地がどこで、どういう神社だったか分かれば解明の糸口になりそうだ。 作成日 2017.4.2(最終更新日 2019.2.11) | |
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