蝮ヶ池八幡宮

石清水八幡宮から勧請した名古屋新田の鎮守様

蝮ヶ池八幡宮拝殿

読み方 まむしがいけ-はちまん-ぐう
所在地 名古屋市千種区向陽一丁目三番三十二号 地図
創建年 1624年-1643年頃(江戸時代前期)
社格等  村社・八等級
祭神

應神天皇(おうじんてんのう)

アクセス

・地下鉄東山線「池下駅」から徒歩約6分
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度

 地下鉄池下駅の北300メートルほどの高台にある蝮ヶ池八幡宮。住所でいうと向陽1丁目になる。
 実はこの蝮ヶ池八幡に関する創建と遷座のいきさつが上手く飲み込めず困っている。謎があるとかではなく、遷座についての経緯と年数が理解できないのだ。

 創建したのは名古屋新田の開発に尽力した尾張藩士で大庄屋の兼松源蔵という人物だ。
 江戸時代前期の寛永年中(1624-1643年)に、神託を受けた兼松源蔵は山城国男山八幡宮に参籠し、分霊を戴いて当地の守護神とすべく屋敷内に創始したという。
 山城国男山八幡宮というのは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の昔の名称で、参籠(さんろう)というのは一定期間昼も夜も寺社に籠もって神仏に祈願することをいう。
 最初に創建したのが屋敷内という話と、屋敷の近くの西八幡社だったという話があって、どちらが本当なのか分からない。
 屋敷があった場所は高見町あたりともいうのだけど、兼松源蔵はもともとこの地で暮らしていたわけではなく、新田開発が進んだ時期にこちらに屋敷を構えて引っ越してきたということだ。
 その時期がよく分からないのだけど、更にややこしくしているのは、兼松家の当主は代々源蔵を襲名しているので、どの代の源蔵なのかが分からないという点だ。
 決定的に混乱させているのが、現在・内山2丁目にある蝮ヶ池八幡宮飛地境内社西八幡社の存在と、その由緒書きだ。

 話を少し戻すと、江戸時代初期、1610年から始まった名古屋城築城は1612年の天守築城によって一応の完成を見た(本丸御殿ができて最終的な完成を見るのは1615年)。
 城下町は南から東へ延び、人や家は増え、新田開発の機運が高まった。そのとき、まだ手つかずの原野だった古井村に目を付けたのが兼松源蔵だった。
 名古屋城からここまでは東南方向へ約5キロほど離れている。千種駅のあたりで名古屋台地がいったん途切れ、その東は丘陵地帯が広がっていた。台地の上ということで水が乏しく、近くに川がないことから水田には向かない土地だった。初めは主に山林を切り開いて畑にしていた。
 しかし、それでは発展性が低いということで、兼松源蔵はあちこちに溜め池を作り、新田開発に乗り出すことにする。千種区北部から東部、昭和区から瑞穂区にかけての広い範囲を開墾していった。
 現在、東山動物園にある上池も兼松源蔵が掘った池のひとつで、かつては源蔵池と呼ばれていた。
 蝮ヶ池八幡の名前の由来は、現在の池下駅がある場所にあった蝮ヶ池から来ている。池下は蝮ヶ池の底ということから名付けられた地名だ。
 蝮ヶ池は万治年間(1658年-1680年)にこの地を開拓した人々によって築造された溜め池だ。南北200m東西100mほどの大きさだったという。
 夏になるとマムシがよく出るから蝮ヶ池の名が付いたというのだけど、清明山の晴明神社にも安倍晴明がマムシを退治したという話が伝わっているように、よほどマムシが多い土地だったのだろう。

 話を戻すと、兼松源蔵が屋敷内もしくは自宅近くに八幡社を勧請したのが1624-1643年で、蝮ヶ池が築造されたのが1658年-1680年だったという前提を確認しておく。
 新田開発に携わっていた村人たちが願って八幡社は村に移されて、村の鎮守となったという。それが現在地の向陽1丁目なのか、それ以前にもう一ヶ所遷座地があったのかが分からない部分のひとつとなっている。
 先ほども書いたように内山2丁目に西八幡社があり、由緒書きにはこう書かれている。
「当神社は1633年に蝮ヶ池八幡大神様を一時仮安置された由緒ある神社である」
 1633年に仮安置とはどういうことなのか。それは最初に兼松源蔵が八幡社を勧請した地をいっているのか、それとも文字通り一時的に安置しただけの場所なのか。
 由緒書きの遷座地は「内山1丁目20番18号」となっている。それは現在、ヤマダ電機のある場所だ。
 それに続く話が急に飛んでいて戸惑う。
「元の鎮座地が拡張道路工事敷地内にあったため、昭和11年に現在の地に祭祀されました」
 江戸時代の話をしていたかと思ったら突然昭和11年の話を始めたのでついていけなくなった。
 更に続けて、「昭和19年に伊勢神宮、熱田神宮、津島神社の祭神をお迎えして祀っていたところ、第二次大戦の空襲で神社も氏子も被害を受けずに済んだ」と。
 ただ、その頃には境内も社殿も荒れてどうにかしないといけないと氏子たちと相談していたところ、地域の氏神である蝮ヶ池八幡宮に祀っている応神天皇の両親の神を祀れというご神託があり、山口県下関豊浦村の忌宮神社(いみのみやじんじゃ)に赴いて仲哀天皇と神功皇后を分霊してもらって祀ったのだという。
 この話の展開についてこられるだろうか?
 昭和27年に神社本庁から蝮ヶ池八幡宮飛地境内社西八幡社として承認を受けたというところで話は締めくくられる。
 この西八幡社はもともと内山1丁目にあって、道路の拡張工事に伴って現在の内山2丁目に移されたということなのだろうか。蝮ヶ池八幡を仮安置していたとき、蝮ヶ池八幡宮はどこにあったのか。兼松源蔵の自宅内から現在地の向陽1丁目に移すとき、社殿が完成するまでの期間一時的に預かっていたということだろうか。
 それが1633年だというのであれば、兼松源蔵が自宅に八幡社を勧請したのは1624年から1633年の間ということになる。
 ただ、蝮ヶ池が造られたのは1658年-1680年というから、現在地に移されたときはまだ池はなかったはずだ。蝮ヶ池八幡の名称はのちに呼ばれるようになったということか。
 現在の西八幡社は、蝮ヶ池八幡宮の元宮ではないという理解でいいのだろうか。だとすると、兼松源蔵が最初に八幡社を勧請したのはどこだったのか。屋敷があったとされる高見町なのだろうか。
 1789年に仲田2丁目に屋敷を構えて移り住んだという話もあるのだけど、それだと八幡社の創建云々という話と年代が合わない。
 名古屋新田の水田開発は蝮ヶ池が造られて、そこから水路を引いたあとともいわれていて、だとすると蝮ヶ池八幡宮の創建はその後ということにもなってくる。
 書いているうちに多少頭の中が整理できたけど、やっぱりよく分からない部分は分からないままだ。

 西八幡社以外にもうひとつの飛地境内がある。
 蝮ヶ池八幡宮と池下駅の間の池下2丁目に小さな龍神社と弁天社が建っている。
 大正10年(1921年)、宅地開発で蝮ヶ池が埋め立てられることになり、埋め立て工事をしていたところ、事故が相次ぎ、工事の責任者が倒れてうなされるということが起きたため、池の底だった場所に水の神である竜神(池主大神)を祀ったのが龍神社だ。
 それでも足りないといけないということで、弁才天と同一視されたイチキシマヒメ(市杵島姫命)を祀る弁天社も建てて、怒りを鎮めたのだった。

 蝮ヶ池八幡宮は、明治5年(1872年)に村社に列格。
 昭和20年(1945年)の空襲社で社殿を焼失。
 昭和26年(1951年)再建。
 昭和34年(1959年)台風により被災。
 その後、復旧。

 創建と遷座のいきさつについて、そんなにむきになって知ろうとしなくてもよかったのだけど、調べるほどによく分からなくなって頭が混乱してしまったので、ちゃんと理解してすっきりしたかった。でも、すっきりしていない。
 現在地に遷座したのが何年かはっきり分かれば、その前後についても理解しやすくなると思うのだけど。
 西八幡社にある由緒書きの文章にやられた感もある。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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