愛宕神社(北千種)

これは下方貞清の忘れ形見なのか

北千種愛宕神社

読み方 あたご-じんじゃ(きたちくさ)
所在地 名古屋市千種区北千種2丁目2番6号 地図
創建年 1543年?(戦国時代中後期)
社格等 村社・十三等級
祭神 火産神(ほむすびのかみ)
アクセス

・地下鉄名城線「茶屋ヶ坂駅」から徒歩約25分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名古屋市内ではほとんど唯一といっていい愛宕神社が、ここ千種区北千種にある愛宕神社だ。
 同じ火伏せ・防火の神として秋葉権現が尾張では大流行したのに対して愛宕はあまり流行らなかったらしい。昔はもっとあったのだろうけど、独立した愛宕神社として現存するのはここだけになってしまった。どうしてここまで秋葉社との差ができてしまったのだろう。

 全国に愛宕神社系列の神社は900社ほどあるそうだ。総本社は京都市右京区嵯峨にある愛宕神社だ(web)。
 924メートルの愛宕山山頂にあるため、2時間くらいの登山になるにもかかわらず、京都や周辺の人たちは多く参拝に訪れるという。
 3歳までに参拝すると一生火事にあわないという言い伝えがあり、子連れの参拝客も少なくないそうだ。
 京都では家庭の台所や飲食店の厨房に愛宕神社の火迺要慎(ひのようじん)の火伏札を貼っているところが多いというのも、愛宕神社が京都市民に親しまれている証だろう。
 愛宕山は古くから霊山として信仰の対象となってきた山で、大宝年間(701-704年)に、役小角(えんのおずぬ/おずの)と白山の開祖・泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが愛宕神社の始まりとされる。
 もともとは愛宕山の神を祀る信仰が元になっている。火伏せの神社となったのは後年のことだ。
 天応元年(781年)に僧の慶俊(けいしゅん)と和気清麻呂(わけのきよまろ)によって、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺(はくうんじ)が建立された。
 白雲寺は山岳信仰と修験道が結びついて修験道場となり、愛宕の神は愛宕権現と呼ばれた。
「延喜式」神名帳の丹波国桑田郡 阿多古神社は、亀岡市にある愛宕神社(元愛宕)のこととされている。

 神仏習合時代の白雲寺は本地仏を勝軍地蔵、垂迹神を伊弉冉尊(イザナミ)とし、天狗信仰や塞神信仰も融合して複雑な信仰へと発展していった。
 唐の五台山に倣った愛宕五坊をはじめ、愛宕山には多くの寺院や坊が建ち並び隆盛を極めた。
 愛宕山への参拝者も増え、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られるようにもなった。
 本地仏が勝軍地蔵ということで愛宕権現は軍神とされ、戦国時代には武将によって信仰されることになる。
 有名な直江兼続(なおえかねつぐ)の兜の前立ての「愛」は愛宕権現のことともいわれる。愛染明王の愛という説もあるのだけど、当時の軍神ということを考えると愛宕権現の方がふさわしいように思う。
 江戸時代になると愛宕詣でが流行り、一般の参拝者も増えていった。
 明治の神仏分離令によって白雲寺は廃絶となり、無理矢理愛宕神社に変えられ、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。

 北千種の愛宕神社は、江戸時代中期(宝永年間(1704-1711年)とも)に尾張藩の塩硝蔵(火薬蔵)の守護神として建てられたと境内の由緒書きにあるけど、それはない。
 1670年頃成立の『寛文村々覚書』に載っており、前々除となっているということは1608年の備前検地のときすでに除地だったことを意味しているから、少なくとも創建は江戸時代以前にさかのぼる。
 前々除というのは名古屋の神社を考える場合、非常に重要なポイントで、尾張で備前検地が行われた1608年はまだ名古屋城(web)が建っていないということを認識する必要がある。名古屋城築城は1610年から1612年(大天守完成)で、清洲越し(清洲城下から名古屋城下への大規模な引っ越し)が始まったのが1612年頃とされている。
 つまり、1612年を境に、名古屋の様相は一変しているということだ。名古屋城下に創建された神社と、それ以前からあった神社は意味合いが違う。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は天文二丑年(1543)2月、下方左近に依りてなされ、徳川幕府の火薬庫の守護神として特に崇敬あづかりし神社なり。明治6年据置公共となり、明治11年5月村社に列格する」

 これは本当だろうか?
 下方左近というのは下方貞清(しもかたさだきよ)のことで、清和源氏義光流甲斐源氏小笠原氏の庶流で、戦国時代は織田家の家臣となっていた。
 柴田勝家などと比べると知名度は低いものの、数々の戦で一番槍をあげるなどの武勇で知られる武将だ。
 父親の下方貞経(しもかたさだつね)が信濃国から尾張国上野村に移ってきて上野城を築いたとされる。
 上野城は愛宕神社から見て400メートルほど東南の上野小学校のあたりにあった(地図)。
 東西約108メートル、南北約72メートルほどの規模だったと考えられている。遺構は残っていない。
 貞清は1527年生まれで、1541年に父の貞経が病死したため、わずか14歳で家督と上野城を継ぐことになった。
 最初、信秀の家臣となり、後に信長の配下となった。
 1543年の三河国小豆坂の戦いで戦功を上げ、
信秀から古今無双の槍の使い手と賞賛される。
『愛知縣神社名鑑』のいう創建の1543年というのはこの年を指す。いくら城主になって戦で活躍したからといって16歳で神社を建てたりするだろうか。当時は15歳かそこらで元服すれば大人扱いで、城主でもあるから神社のひとつも建てるのは当然だったのかもしれないけど、この当時の貞清の置かれた状況から考えると、神社創建はもう少し後ではなかったかと思う。あるいは父親の貞経が創建したのかもしれない。
 いずれにしても火伏せの神として祀ったのではなく、勝軍地蔵にあやかった愛宕権現を祀るために創建したということだったはずだ。
 1551年、尾張国萱津の戦い、美濃国菅野大神山合戦で活躍。
 
1560年の桶狭間の戦いで首一級をあげる。
 その後も信長家臣として1570年の姉川の戦いに参戦するなど織田家に欠かせない武将となっていく。
 1576年の安土城築城の際は普請奉行丹羽長秀の下で働くなど、後年は政治にも関わるようになった。
 信長亡き後、柴田勝家や蒲生氏郷、加藤清正から一万石や二万石という大名待遇で誘われるも、長男の貞弘、次男の貞吉を本能寺の変で亡くし、自身も老齢だったことを理由にすべて断った。
 1601年には松平忠吉の求めに応じ尾張国の清洲城に入った。最初は辞退していたものの、家康の命ということもあり従うことになった。
 1606年、清洲城で死去。79歳まで生きた。
 自らが建てた上野山永弘院(ようこういん/えいこういん)に葬られる。寺名は貞清の戒名「永弘院心源浄廣居士」から来ている。
 永弘院は1690年に現在地に移されている。
 本尊は聖徳太子作と伝わる薬師如来で、地蔵堂には貞清が信仰した勝軍地蔵が祀られている。

 境内の由緒書きでは祭神を稚産霊命(わかむすびのみこと)と伊耶那美尊(いざなみのみこと)としているのに対して、『愛知縣神社名鑑』では火産神としている。
 火産神は火産霊神の間違いだろうけど、カグツチ(迦具土神)のことだ。
『古事記』では火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と表記さ、『日本書紀』では軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。
 総本社の愛宕神社では、本殿で伊弉冉尊(いざなみのみこと)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、豊受姫命(とようけびめのみこと)を祀り、若宮で雷神(いかづちのかみ)、迦遇槌命(かぐつちのみこと)、破无神(はむしのかみ)を祀る。奥宮では大黒主命以下17柱を祀っている。
 創建当時、下方貞清の中では愛宕権現か勝軍地蔵を祀るという意識だっただろう。江戸時代に入ってそれがどう変化していったのかは分からない。このあたりに尾張藩の火薬庫(塩硝蔵)が作られたことで、その守護を託されることになり、火伏せの神という性格を強めていったことは考えられる。
 明治の神仏分離令以降、迦具土(カグツチ)を祀るとしたのかもしれない。
 第二次大戦中、近くに兵器工場があり、空襲の被害が大きかった。神社も焼けて建て直してるのではないかと思う。その中で祭神をどうするかで混乱してしまっただろうか。
 境内の由緒書きは信用できないのだけど、イザナミはいいとして、どうしてワクムスビ(稚産霊)としたのだろう。ここはカグツチとした方が無理がないと思うのだけど。
 ワクムスビは『古事記』では、イザナミが火の神カグツチを生んで火傷して苦しんでいるときにミツハノメ(弥都波能売神)に続いて生まれたとする。トヨウケヒメ(豊受比売神)の母に当たるとされる神だ。
『日本書紀』では、イザナミがカグツチを生んで死ぬ間際に土の神ハニヤマヒメ(埴山姫)と水の神ミツハノメ(弥都波能売)が生まれ、カグツチがハニヤマヒメをめとってワクムスビが生まれたと書いている。
 ワクは若さを、ムスビは物事の生成を意味するとされ、頭から蚕(かいこ)と桑が生じ、へそから五穀が生じたとする。
 ワクムスビは総本社の愛宕神社の祭神の一柱ではあるけど、あえてこの愛宕神社でワクムスビを祀るとした理由がよく分からない。

 遷座したという情報がないので何とも言えないのだけど、もともとこの場所で東向きに社殿を建てたとは思えない。自分が下方貞清になって考えたとき、自分の城から見て400メートル西北に東向きで自分が信仰する愛宕権現を祀る神社を建てようとは思わない。城内に祀るか、鬼門の北東に祀るか、いずれにしても400メートル北西は位置的に中途半端すぎるように感じる。
 戦後の町の復興や再開発の際に、場所や向きを変えて建て直されたのかもしれない。現在は、すぐ西に名古屋市立大学北千種キャンパスがある。その校舎のせいで午後に行くといつでも日が陰って薄暗い。
 ここまで書いてきたことをすべてひっくり返すようだけど、この神社は下方貞清とは無関係なのかもしれない。なんとなくそんな気がしないでもない。
 ただ、千種には下方貞清という優れた武将がいたことは覚えておいてほしいと思う。千種区下方町は、この下方貞清から来ている。
 私としては、下方貞清が建てた神社ならもっと親しみが持てて嬉しい。
 現在は上野天満宮の境外社という扱いになっている。八坂社をつぶした上野天満宮だから、ここも危ないんじゃないかとちょっと心配している。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

千種区の愛宕神社を訪ねる

HOME 千種区

スポンサーリンク

Scroll Up