『延喜式』神名帳(927年)には載ってないものの、それに匹敵するような古社を思い浮かべて出向いていくと、あれ? と思う。期待が大きすぎると反動で失望も大きくなる。私にとって金山神社はそういう神社だった。さほど期待せずに行くと、なかなか悪くないと感じるかもしれない。 創建そのものは古く、熱田社(熱田神宮/web)の修理を担当する鍛冶職、尾崎彦四郎の祖・善光が金山彦命(カナヤマヒコ)を勧請して自宅に祀ったのが始まりとされている。 おそらくそれは、岐阜県垂井にある美濃国一宮の南宮大社(web)からだったろうか。金属、鍛冶関係の神社の総本社でカナヤマヒコを祀るといえばこの神社だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「今の境内は昔熱田の修理職の鍛冶尾崎彦四郎の移住地で祖善光が、邸内に承和年中(834-847)神霊を勧請守護神として祀る。応永年中(1394-1427)住居を熱田中瀬町に移し邸跡に社殿を造営、熱田高蔵宮の末社として春秋二季熱田の祠官が祭祀を司る。徳川江戸末期に到り、名古屋の鉄商笹屋惣七の信仰あつく、金栄・竹栄の二講を結んで、社頭弥栄なり明治5年8月、村社に列格し昭和4年10月4日、供進指定社となる。昭和19年10月、社殿を改築した。さきの二講を金盛講と改め昭和32年4月奉賛会を結成し、昭和33年10月社務所を改築する」 室町時代の中期に尾崎家が熱田の中瀬町に移ることになったものの、邸の跡に社殿を建てて祀ったということだ。 熱田高蔵宮は今の高座結御子神社のことなのだけど、どうして熱田社ではなく高蔵宮の末社になったのか、そのあたりの事情はよく分からない。
江戸時代の金山は古渡村と熱田神領との境に当たる。駅より北が古渡村で、南が熱田神領だった。 『寛文村々覚書』(1670年)の古渡村の項にはこうある。 「社三ヶ所 社内九反弐拾九歩 前々除 八幡宮 熱田祢宜勝太夫持分 権現 当村祢宜 惣太夫持分 明神 勢州御師 山田福太夫持分」 八幡宮は闇之森八幡社、権現は榊森白山社、明神は神明社(伊勢山)のことだろう。 『尾張志』(1844年)でも古渡村の神社はこの三社となっている。 金山神社があるのは駅の南なので、熱田神領内にあったことになる。 『尾張徇行記』(1822年)にはこんなことが書かれている。 「鉄山明神社の一丁ホト下、一ノ鳥居ノ東畑ニ一間四方の古冢アリ、小キ石榎ノ古株アリテ耕作ノ邪魔ニナリシ故、先年畠主ホリ除ントセシカ、其石地下ニテ段々広ク深クホレトモ限リナク、其上怪異アリテホルコトヲヤム、此石ニ祈レハ霊験アリ、今祠官菊田萩大夫支配ストナリ 鉄山一作金山」 まず、当時は鉄山明神と呼ばれていたことが分かる。一作金山とあることから、金山とも表記したようだ。 畑の中に塚があって、古い榎の木の根元の小さな石が邪魔だったので掘り返して捨てようとしたところ、掘っても掘っても石が大きくて掘り出せず、その上怪奇現象が起こったので掘るのをやめ、その石に祈願すると願いが叶うという話になったようだ。 塚は古墳で、石は石室の天井石か何かだっただろうか。
地理的に見ると、熱田台地の南、熱田神宮や断夫山古墳の北に位置している。 このあたりは古墳が多く、高座結御子神社周辺の高蔵遺跡(縄文)、金山駅南の東古渡町遺跡(縄文)、金山駅北の金山北遺跡(弥生)などの遺跡が知られている。金山駅西には7世紀半ばに創建されたとされる尾張元興寺があった。 このあたりに古くから鍛冶などの職人が集まってきていたようで、断夫山古墳から発掘された鉄製品も金山あたりで製造されたものと考えられている。 室町時代から江戸時代にかけて刀剣の鍔(つば)が金山鍔と呼ばれ名物となった。 江戸時代後期になると金物商が軒を連ねるようになり、金山神社はそれらの人々によって大事にされ、発展していくことになる。 金山といいつつ、金属の金や金山のことではない。お金の金でもなく、もともとは鉄関係の土地であり、神社だったといえそうだ。
金山(かなやま)の由来はこの金山神社とされるも、地名としての歴史はそれほど長くはなく、金山町が誕生したのは昭和9年(1934年)のことだ。 金山には長らく駅がなかった。鉄道の線路は通っても金山は素通りするだけで、初めて金山駅ができたのは戦中の昭和19年(1944年)のだった。名古屋鉄道が岐阜と豊橋を結ぶ線の中間駅として金山駅を作った。 JRと地下鉄の駅ができたのは戦後のことで、それもバラバラに作ったものだから駅が離れていて乗り換えが不便だった。再開発ですべての駅を統合して金山総合駅に生まれ変わったのは平成元年(1989年)のことだ。 金山神社は明治5年(1872年)に村社に列格。昭和19年(1944年)に社殿を改築している。 熱田の一番町あたりには軍用機の部品などを作る工場があったため、空襲で多くの被害を出している。熱田神宮も一部が焼けた。 金山のあたりは少し離れていることもあって空襲の被害は少なかったようだ。金山神社も空襲で焼けたなどの話は伝わっていない。
祭神の金山彦命(カナヤマヒコ)は、伊弉冉尊(イザナミ)が火の神・火之迦具土(カグツチ)を生んで女陰に火傷して苦しんでいるとき、嘔吐物から化身したとされる神だ。鉱山、鍛冶、金属加工などにたずさわる人々の守護神とされてきた。 『古事記』は金山毘売(カナヤマヒメ)も一緒に生まれたとしている。 カナヤマヒコを語るには南宮大社を抜きには語れないのだけど、南宮大社はとにかく謎の多い神社で理解するのが難しいこともあって、ここでは触れない。 南宮大社は、『延喜式』神名帳(927年)には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」とある。金山神社の名前はここから来ているとされる。 『愛知縣神社名鑑』では主祭神を金山彦命のみとしているけど、『尾張名所図会』(1844年)では「金山社」として、天目一命(アメノマヒトツ)も祀るとしている。 アメノマヒトツは天目一箇神、天之麻比止都禰命、天之御影命、天戸須久根命など、数多くの別名を持つ神で、鍛冶などに関係するのは間違いないとしても、その正体はよく分からない。 目一箇(まひとつ)は一つ目のことで、鍛冶が鉄の温度を見るために片目をつぶる姿から来ているとか、火を見すぎて片目を失明することが多かったからなどというのが通説となっている。しかし、あれだけ多くの別名を持つとなると、その存在はそう単純なものではないかもしれない。 『古語拾遺』(斎部広成)は天津彦根命(アマツヒコネ/アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神)の子といっている。 『日本書紀』の一書(あるふみ)では高皇産霊尊(タカミムスビ)がアメノマヒトツを出雲の神々を祀るための作金者に指名したとする。 『古事記』の岩戸隠れのときに鍛冶をした天津麻羅(アマツマラ)がアメノマヒトツのこととする説もある。 金山神社でも天津麻羅(天津真浦命)を配神の一柱としている。 もう一柱の石凝姫命(イシコリドメ)は岩戸隠れの際に八咫鏡(やたのかがみ)を作った神で、こちらも鋳物、鋳造などの神として祀られている。
11月8日は、ふいご祭りが行われる。 ふいごは鞴と書き、金属の精錬や加工をする際に空気を送り込む送風器のことだ。製鉄のときに使う大型の鞴(ふいご)のことを踏鞴(たたら)と呼ぶ。 かつては境内で鍛冶の実演をしていたそうだけど、近年は行われていない。 鍛冶や鋳物師、金属関連の人々が日々の安全を祈願したり、お礼参りをする祭りとなっている。
作成日 2017.4.15(最終更新日 2022.11.5)
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