なんだこりゃ、本当か!? と目を疑う光景が目の前にあった。鳥居と拝殿の間に新幹線の高架が横切っている。これは見たことがない。しばし呆然とこの光景の前に立ち尽くすことになった。 神社の境内を公道が通っていたり、鉄道の線路が走っていることはたまにあるけど、新幹線の高架が上を通っているところは全国的にみてもほとんどないんじゃないだろうか。まず神社の上を通さないし、通るとなったら神社は移されるのが普通だ。逆に言うと、何故この神社はここに居座ろうと思ったのか。 東海道新幹線の開通は昭和38年(1963年)のことだ。高架が通る分だけ土地を国鉄に売却したのだろうけど、こういう場合の土地の権利はどうなるのだろう。 何にしても、新幹線の高架下をくぐって参拝するというのは違和感を通り越して面白い。ひっきりなしに上を新幹線が通過していく。
この神明社は御替地神明社と呼ばれている。 御替地(おかえち) というのは替地に御を付けた言葉なのだけど、江戸時代は御替地新田があった場所だ。 東の戸部下や忠次は江戸時代中期の1727年(享保12年)に、干拓によって作られた新田だった。 翌1728年に天白川の氾濫を抑えるために天白川と山崎川を結ぶ水路を作ったところ、かえって山崎川も氾濫するようになったため埋め戻すことになったのが1741年。 この年、尾張藩は戸部下新田、忠次新田を西に延ばす格好で戸部下前新田を作った。現在、豊田となっている場所がそうだ。 ついでに書くと、国道247号線の西の氷室は、氷室長冬が1856年(安政3年)に開発した氷室新田で、道徳新町などは1817年に完成した道徳前新田があった場所に当たる。 戸部下前新田の開発によって天白川下流にあった天白古川新田が取りつぶされることになり、その地の持ち主だった渡辺善兵衛に与えられたのが神明社がある土地で、御替地新田と呼ばれた。 戸部下前新田は1812年(文化9年)に道徳新田と改められた。 この神明社は、御替地新田が完成した翌年の1742年に建てられたとされる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は寛保2年(1742)という。道徳巳新田、開発により村の守護神として祀る。明治5年7月、村社に列格する」 道徳巳新田は旧町名で、以前は豊田町字道徳巳新田だった。 『南区の神社を巡る』は、相殿に日本武尊(熱田社)と須佐之男命(津島社)を祀るとしている。 境内社に竜神社、秋葉社、池鯉鮒社、稲荷社がある。これらの境内社も創建時に建てられたと「復興記念碑」には書いてある。 稲荷社だけは昭和8年(1933年)に建てられたと『南区神社名鑑』は書いている。 ただ、『南区の歴史』は竜神社が1780年、秋葉社・熱田社・津島社・池鯉鮒社は1742年、稲荷社が1933年としている。 創建と同時に境内社も一気に揃えるとはちょっと考えづらいので、境内社に関しては『南区の歴史』が正しいのではないかと思う。
昭和20年に空襲で一部が焼失。 昭和34年の伊勢湾台風でも被害を受けた。 境内にある弘法堂は戦後に建てられたもので、30体以上の石仏がおさめられている。 竜神社には円空作と伝わる竜神像が祀られていた。 1780年(安永9年)に日照りが続いて困った村人が荒子観音から迎えて祀ったと竜神像の背に書かれているという。 最近になって正式に鑑定してもらったところ円空作で間違いないだろうということで、平成28年に名古屋市博物館(web)に寄託された。
豊田村が成立したのは明治11年(1878年)で、道徳新田や道徳前新田、紀左衛門新田など12の新田が合併してできた。 長らく農地だった豊田が変わったのは、大正時代に入ってからのことだった。 大正10年(1921年)には日清紡績(web)の名古屋工場が進出して、多くの社宅や住宅が建てられ、商業施設もできていった。 昭和初期にはマキノプロダクションの映画撮影所もあったくらいで、名古屋の南部を代表する繁華街だったというから、今の姿からは想像がつかない。 工場は平成18年(2006年)に撤退し、アピタ(1996年開業)が跡地を買い取ろうとして話がまとまらず、2010年に再開発され、ホームセンターのビバモールを中心とした商業施設に生まれ変わっている。 今昔マップを年代順に見ていくと町の移り変わりが見てとれる。
町名としての御替地はなくなってしまったものの、この神明社の通称や、神社隣の御替地東公園などに名前は残った。古くからの住人は今でもこのあたりのことを御替地といっているのではないだろうか。 公園にはお年寄りが集まっておしゃべりをしていた。神社の境内には猫もいた。そんなのんびりした風景を新幹線が走り抜けていく。 なんというか、ずいぶん多くの時間が流れたといった気分になる。
作成日 2018.3.14(最終更新日 2019.8.25)
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